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中日语言文化差异特征研究论文 中日文化差异论文参考文献(三篇)

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中日语言文化差异特征研究论文 中日文化差异论文参考文献(三篇)
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推荐中日语言文化差异特征研究论文(精)一

商务日语的概念由来已久。近年来,随着实践和研究的深入,对商务日语的理解和认识也在不断加深。小野寺(2004) 提出: 商务日语可以划分“言語”和“非言語”两个组成部分。贾丽(2013) 也认为: 高水平商务日语的内涵应由日语交流能力、商务专业知识、日本社会文化和日本企业文化四个方面组成。以上研究反映出学术界对商务日语本质认识的进一步深化。即商务日语不是普通日语的下位分类,而是结合语言技能、经贸实务与文化理解的一种综合技能。

国际间的商贸交往,既是产品和技术的交往,也是人员和文化的交往。商务日语服务于中日间的商贸交往,不仅是专业的语言技能,更是围绕国际贸易的一系列跨文化交际活动。中日两国同处东亚,有着相对接近的生活习惯、文化习俗和思想观念。但同时也要看到,中国和日本毕竟是两个国家,民族不同,历史不同,语言差异也非常大。中国人和日本人在协调人际关系、选择和运用语言、树立企业文化等方面都存在不容忽视的差异。不了解这些差异,盲目按照中国的方式去处理相关问题,势必造成跨文化交际的障碍,给商务活动增加不利因素,影响商务日语工作的顺利开展。

以下,从跨文化交际的角度,分别论述商务日语不同于普通日语的表达特点,以及在商务日语工作中带来负面影响的主要文化壁垒。

作为语言手段,商务日语的主要交际目的是完成以日语为语言载体的商务实务和交流工作。因此,商务日语的运用范围主要是商务之间及商家与顾客之间。中国人常说: “和气生财”。日本人在商业上比中国人更加注重人际关系的和谐。因此,商务日语的一个重要任务就是促进和维持良好的人际关系。与日常生活中使用的普通日语相比,商务日语具有如下突出特征:

(一) 谦恭有礼

日本民族自古重视礼貌礼节,日语中有大量敬语表达方式,包括尊他语、自谦语和郑重语。日本人根据需要,把这些表达方式搭配组合,创造出丰富多变的日语敬语。在古代,敬语的使用主要取决于人与人之间身份地位的差异。大臣对皇帝,庶民对贵族,武士对主君,族人对族长等,都要使用敬语。甚至自己对自己也使用敬语,称为“自敬表现”。

近代,随着商业经济的诞生和快速发展,原本地位低下的商人逐步上升为日本社会的重要支配力量。与此相对,原先高高在上的贵族、武士却逐渐失去特权,成为商业经济的追随者。人与人之间身份地位差异的缩小,导致了敬语使用对象、场合和目的的变化。在江户时代,商人们对敬语在生意兴隆上的作用极为重视,甚至诞生了「敬語上手は商売上手」(“敬语好就是生意好”) 的说法。在现代,日语敬语成为商业活动的重要润滑剂,日本商家对贸易伙伴和顾客的谦恭有礼、敬奉有加已为众所周知。

不论口头的商务交际还是商业信函写作都大量涉及内外、上下等多种人际关系。通过巧妙使用敬语保持彬彬有礼的态度,随时维护良好的伙伴关系和客户关系,成为日本企业在社会上立足和长期发展的前提条件。为了凸显言辞的庄重有礼、毕恭毕敬,商务日语的用词必须脱离日常、更加高雅,句式也必须尊卑分明,语气要求客气、委婉。因此,商务日语与日常交际中所使用的日语有着很大的差别。

(二) 外来语优先

日语中的词汇根据其来源,可以分为和语、汉语、外来语和混种语四大种类。其中,外来语使用片假名书写,主要是近代后从西方传入日本并在日语中固定下来的词汇。外来语从诞生之日起,就伴随着时尚、新潮和进步的语感。尤其是在全球经济一体化日益加深的当代,商业宣传用语的选择越来越倾向于外来语化。尽管在现代日语的普通文章和日常对话中,依然是和语和汉语占据主导地位,但在广告文案、店铺招牌、商标、商品名称等商务性场合,外来语明显更受青睐。如: 咖啡馆等餐饮机构提供的「牛乳」(牛奶) 称为「ミルク」(milk) ,百货商场等处的「買い物」(购物) 称为「ショッピング」(shopping) 。在金融机构,借钱给个人的商业服务称为不叫「借金」(借款) ,而叫「ローン」(loan) 。「水泳教室」(游泳培训班) 、「映画館」(电影院) 之类的说法已经落伍,取而代之的是「スイミングスクール」(swimming school) 、「シネコン」(大型影院,影城) 等更富有时代感的命名。

不仅如此,很多商务活动还涉及专业的术语和科学技术名称,而绝大部分这类词汇本身就是外来语。因此,商务日语中使用大量外来语,一方面是迅速吸收外来新概念的固有需要,另一方面也是为了营造国际化、高科技、时尚、流行的品牌形象,以更好地把商品推向世界。为了达到这样的目的,日本人也使用创造出来的貌似外来语的词汇作为商标,以吸引顾客。日本著名的电器和音响国际品牌「ソニー」(sony) 就是这样诞生的。

(三) 偏爱受益表达

商务日语的另一个显著特点是大量运用受益表达,通过强调自己受益来表示对贸易伙伴和客户的感激与敬意。例如在日本商店的店内广播中,经常能够听到以下的句子: “本日はお忙しいところ当店にお越しいただき、誠にありがとうございます”(感谢您今天拨冗光临本店! ) ,店方首先强调客人的光临乃是自己的受益,而后继以真诚的感谢,这是标准的商务日语表达。再如贸易伙伴之间向对方提出变更订货内容的要求后,再次确认使用如下说法: “ご注文の内容変更について、検討いただけましたでしょうか?”(请问贵方是否已就订购内容变更进行了研究?) 。

本来是为对方提供益处的行为,或者本来是按照自己的意愿单方面决定的行为,在商务日语的交际中却都要用“させていただく”这种受益的说法。例如: “お帰りの際に皆様に商品のプレンゼントをさせていただきたいと存じます”(您回去时,我们将有商品礼物赠送给您) 、“本日はお休みさせていただきます”(本店今天休息) 等。

即使是在实力和业绩的宣传中,日本企业也不喜欢使用强烈、直白的表达,而是偏爱“させていただく”这种受益表达形式。仿佛是受到贸易伙伴的帮助、顾客的许可才获得了某些成功和发展。例如: “わが会社はこれまでに多くの新製品を開発させていただきました”(迄今我公司已开发了多款新产品) 。

(四) 多用道歉式寒暄

日本民族倡导以和为贵,日本企业更是重视与贸易伙伴和顾客的良好关系。在维持商务交往方面,寒暄语、尤其是道歉语的运用是润滑人际关系的一个重要手段。例如: 在日本企业中,新人走马上任后最通常的例行公事之一就是对贸易伙伴的寒暄拜访,称为“挨拶回り”。

在寒暄语的具体内容方面,也不同于中国人用亲热感拉近距离的习惯,日本人通常用郑重的态度和致歉来营造和睦关系。如: 初次见面时,中国人会说“你好你好! 幸会幸会! ”,日本人则说“始めまして”(初次见面) ; 再次见到日本客户时,中国人会说“老朋友老朋友! ”,日本人则说“ご無沙汰しております”(久疏问候) 。客人进入试衣间试衣,店员帮忙拉上布帘时说“失礼します”(恕我失礼) 。日本商店拟定临时歇业通知,往往用“毎度有難うございます。誠に勝手ながら、下記の日程で臨時休業させて頂きます”(感谢您的光临。我店定于以下日期临时闭店,请您原谅) 之类的说法。此处的“誠に勝手ながら”,意思是“恕本店擅自决定”,它显示出店方真诚的歉意,因而是绝对不能缺少的一句。

围绕商务的跨文化交际还面临另一个风险,就是不同国家之间企业文化的差异。商务日语作为包含“言語”和“非言語”两个组成部分的综合能力,其实践者除了必须具备地道的日语交流能力、掌握相关商务专业知识外,还必须能够应对中日企业文化差异的挑战。日本企业文化源自日本社会文化与企业传统的融合。较之中国看重个人能力、强调个体发展的企业文化,日本的企业文化具有迥然不同的特点。

(一) 重视团队合作与沟通

中国企业重视结果胜于过程。一旦某项工作交给某人,通常被认为是给予其展示个人能力的大好机会。因此,中国人往往不会就工作的计划和细节频繁请示、汇报领导,而是等工作有了好的结果才向上级汇报,否则他可能被认为是缺乏工作能力和自信心。同时,中国人更重视个人职业发展胜于团队合作,因此,企业员工的跳槽率比较高,对企业的忠诚度也较低。

与此相比,日本企业非常重视团队合作和下情上达。一项工作展开之后,下级必须经常向上级汇报进展情况,在很多工作计划和细节上听取上级的意见。这在日本企业称为“報告·連絡·相談”,简称“報·連·相”。

“報·連·相”是日本企业最重视的沟通方式和工作手段,可以保证上级对下属工作情况的严格掌握。这与日本企业中,上级必须为下属所犯错误负责的领导风格有关,同时,也与团队决策、团队工作的企业文化有关。类似“報·連·相”的主动、充分沟通也是日本企业之间为保障商务关系顺畅所依赖的必需手段。相关调查表明,没有“報·連·相”的习惯是日企管理人员面对中国员工感到的最大文化冲击。

(二) 守时观念严格

在守时观念上,中日文化本身就存在较大的差异。中国人倾向于大致时间。如果是中国人之间交往,比约定时间迟到个三五分钟通常不会招致对方的不满和交际的失败。迟到者如果致歉,也往往非常简单,而对方则会立刻表明自己并不在意———这已经成为中国人的交际习惯。迟到者如果提及迟到的原因(通常是堵车之类的交通问题) ,中国人也习惯于不去深究,以免破坏和谐和相互信赖的人际关系。中国人的这种大大咧咧的时间观念,在企业文化中则表现为上班、开会时从上到下系统性的不守时和迟到。

与此相比,日本人非常注重信守承诺。一旦约好时间,一定不会迟到。在商务场合,是否守时更是判断一个企业、一个合作者是否认真、是否值得信赖、是否看重与己方承诺的重要根据。因此,在日本,赴约迟到是商务场合的大忌。在日本企业内部,上班不迟到,开会不迟到是企业对员工的基本要求。即使是企业的领导,也不能在开会时随意迟到。

商务日语工作是一项跨文化交际的实务,必须尊重日本企业文化,严格守时,才能避免交际的失败。

(三) 具有独特的体察文化

体察在日语中“察し”,是日本人的一项必备交际技能。

日本企业要求员工: 上级说到三,那么下级应该体察到十,否则作为下属就是不合格和令人失望的。在商务活动中,日本人也习惯于从贸易伙伴提供的少量信息中,努力体察出对方的意图和要求,自行补全其他没有明确的信息,并进行适当的安排,坚决避免因不必要的提问而给对方造成不悦。

体察的文化是单一民族在长期发展的高度共同文化背景之上形成的默契文化。美国、中国这样地域辽阔、民族众多的大陆国家缺乏高度共同的文化背景,因此没有形成体察的习惯。在中国企业里,工作方式是直截了当的。“上级不说,下级不做”不会受到特别的非难。因为中国人认为“做得多,错得多”,一旦揣度错了上级的意图,更会“费力不讨好”。这种文化习惯带到日本企业中,往往让日企管理人员感觉中国员工不够积极、缺乏体察的能力。因此,要想在商务日语工作中获得企业更多的信任,推动跨文化交际的成功,必须学习和努力培养体察的能力,加强与上级的沟通。

在商务日语工作中,如果对上述中日企业文化的差异一无所知,盲目按照中国的做法来处理问题,势必造成两种文化的冲突与摩擦,影响跨文化交际的顺利进行。作为切合实务的商务日语教学,必须兼顾日本企业文化的教育,才能培养具有较强跨文化交际能力、符合企业需要的日语人才。

目前,国内很多高校日语专业都开辟了商务日语课程,部分高校还设立了商务日语专业,主要学习商务日语翻译、国际贸易实务、商贸日语写作、商务礼仪等相关课程。总体上仍然以日语学习和商贸实务学习为中心,几乎没有或很少涉及跨文化交际。

但是,在前面的论述中,我们已经指出商务日语实际上是一种经贸领域的跨文化交际,如果仅仅局限于语言知识和商贸实务的学习是远远不够的。要培养出真正满足社会需求、企业需求的商务日语人才,必须立足于跨文化交际实践,注重培养符合日本文化习惯的商务语言运用能力,以及守时、体察、团队工作等核心企业精神。只有将这两方面有机结合在一起,才是兼顾了“言語”和“非言語”的商务日语教育,才能满足中日跨文化交际的需要,形成实际的商务日语工作能力。

如果可能,应该在商务日语相关课程中加入中日文化对比、日本企业文化教育以及赴日企研修等实践环节,让学生从理论、实践两个角度积累跨文化交际经验,为毕业后能够顺利开展商务日语工作、促进两国经济的共同发展、提高中日跨文化交际的整体水平打下基础。

参考文献:

[1]渠培娥. 从言语主体来看「させていただく」的运用[j].日语学习与研究,2012(6) .

[2]贾丽. 商务日语学习中日企文化理解的重要性[j]. 日语学习与研究,2013(1) .

[3]孙苏平,袁秀杰. 商务日语口译的特点与策略[j]. 辽宁工程技术大学学报(社会科学版) ,2010,12(6) .

[4]周林娟,唐千友. 商务日语的语用特征分析[j]. 日语学习与研究,2006(3).

推荐中日语言文化差异特征研究论文(精)二

中日両国の神話についての研究

[要 旨]中国は日本と隣国であり、さまざまな関係が持っている。その中に神話は 似ているところが多くて、それは両国の交流が以前からあったからと思われる。比較研究の角度から見ると、民族の境と国家の境を越えることができって、もっと広い範囲に神話文化研究が進められる。この論文は実例を列挙して比較するということを通じて,両国の神話の同じところと違ったところを捜し出して研究する。

[キーワード ] 中日両国 神話 比較

[中文摘要]中国和日本作为邻国,有着各种各样的关系。其中两国的神话相似的地方很多,应该是以前互相交流的缘故。从比较研究的角度看来,可以跨越民族与国家的界限,在更加广阔的范围里推进神话文化的研究。同时,通过列举实例进行比较,找出两国神话的相同点和不同点。

[中文关键词] 中日两国 神话 比较

はじめに

原始人は自然の中で起こったことにはなんとなく理解できなくて、それは神様の指示であると思った。だから、原始人の生活習慣、原始信仰、自然に対する態度などが神話に現すことができる。神話は以前の人類が自然を探して、知識と成果を取るの芸術の表現として、非常に魅力がある。中国と日本はアジアの東部の二つ偉い民族をとして、素晴らしい神話をうまれた、それに両国の交流も頻繁で、伝われる神話は人類の文化史の珍宝だと思われる。しかし、両国の神話はまったく同じというわけ ではなく、そして本文は比較法によって、両国の創世神話(特に中国の盤古、女媧と伏羲;日本の「伊耶那岐神」と「伊耶那美神」の創世神話)を比較して、両国神話の共通所と違う所を発見する。1.中日両国についての典型神話を列挙する 1、1中国の神話

中国の神話には主に三人があり,盤古、女媧と伏羲である。盤古は天地を造るために、自分を犠牲したから、皆の印象でとても偉大なイメージである。女媧という独身神は、神話で人間の頭と蛇の体からなっている。神話によると、人間は女媧に造られた。伏羲は父系社会に入ったら、創りだした神様である。彼は女媧と一緒に世界を創造した。1、1、1 盤古

盤古は卵の中で生まれて、卵と一緒に成長した。一日中、3.3メートルぐらい高くなった。高くなるにつれて、盤古は自分の体で天と地を分けた。天と地の距離が4500万メートルぐらいで、盤古の高さも4500万メートルがあった。盤古は自分の体で天と地を支えているから、とても疲れた。とうとうに、苦労のせいで死んでしまった。盤古が死んだ後、彼の体および各器官がさまざまなものになった。[1]気、つまり彼の息は風と雲に変わり;声は雷となり;左の眼は太陽に、右の眼は月となった。そして、手足は東南西北の頂点に添えられ、胴体は泰山、衡山、崋山、嵩山、恒山の五つの山に変わり、さらに彼の血液は川となり、筋は道に、肉は田畑に、毛は星星に、皮は草や木に、歯は宝石に、汗は雨に変わった;それから盤古の体にある虫が人間に変わった。[2] 1、1、2女媧と伏羲

ある民間神話によれば、女媧は宇宙王のお嬢さんであった。罪を犯すので、人間まで派遣された。荒涼としている自然を見ると、非常に悲し い感じがした。彼女は川辺に沿って歩いて、水面に逆さに映っている自分の顔を見ながら、川の泥で泥人を作った。それで、人間が生まれた。女媧も非常に偉大な神様であった。彼女は創世しただけでなく、世界を救った。彼女は五色石を製錬して、天の穴を繕った。それで、人間は正常な自然の中で生活できた。それに、女媧は巨大な亀の足を切り落として、それによって天と地を支えていた。だから、天と地はずっと平穏であった。人間は安心して作業できた。[3]女媧は母系社会で独身神であったが、父系社会になると伏羲の妹さんになっただけでなく、奥さんまでもなった。中国の苗族の古文献によると、「天は大雨を降らし、人は誰もいなくなってしまって、ただ伏羲と女媧の兄弟二人だけになってしまった。そこで、伏羲は女媧と夫婦となることが欲しいが、女媧は兄弟であるため夫婦になるのを望まない。しかし、伏羲の求めを断ることもできずに困った。そこで、一案をこうじて、伏羲にこう言った。「もし、あなたが私に追いつくことができたら、夫婦になりましょう。」そういい終わると、女媧は大きな木の廻りを走り出し、伏羲はそれを追いかけた。しかし、伏羲はどうしても女媧に追いつくことができなかった。そこで伏羲も妙な考えを出して、廻っていて方向を逆に走り、女媧を前から捕らえた。女媧は伏羲の胸に抱かれた。こうして二人は夫婦として子を産み、子孫を作っていった。」[4] 1、2 日本の神話 1、2、1 五名「別天神」と七代神様

日本の独身で世界を作る神の中で、まず言うべきなのは世界を創造した五名「別天神」である。第1位は天之御中主神(あめのみなかぬし)という、天地が初めてなる時に高天原で現れた神である。第二位、第三位は高御産巣日神(たかみむすひ)と神産巣日神(かむみむすひ)と呼 んだ。第四位、第五位は美葦芽彦知神と天常立神と呼んだ。この五つの神は全部独身で、それに形が見えない神である。

他に、天地を創造したのは七代神様がある。それぞれ第一代は「国常立神」、第二代は「豊雲野神」、第三代は「宇比地迩神」と「须比智迩神」、第四代は「角神」と「活神」、第五代は「意富闘能地神」と「太闘乃辨神」、第六代は「于母陀流神」と「阿夜诃志古泥神」、第七代は「伊耶那岐神」と「伊耶那美神」である。[5] 1、2、2「伊耶那岐神」と「伊耶那美神」

『日本書紀』と『古事記』の記録によると、世界はもとは混沌とした卵と同じように、天地の分けることがなかった。それから天地は形成して、天地の中で1葦牙を産んで、そして天御中主神などの3名の産すること賢い神を化生しだした。これらの神はまた素晴らしい神を生んで、大衆の神の中に伊耶那岐神と伊耶那美神があった。伊耶那岐神と伊耶那美神は天御中主神の命令に従って、二人は天の沼矛を手に持ち、高天原と下界をつなぐ「天の浮橋」の上から、どろどろとした海原を見下ろした。そして天の沼矛を降ろしてゆっくりとかき回した。長い矛が抜き出した時、矛の鋒が垂らすもの泥と塩に沿って垂らして固まって形成した1島、名前は“おのころ島”といわれて、これは日本の国土である。二人はさっそく出来たばかりの「おのころ島」に降りていき、まず最初に「天の御柱」を立てた。天の御柱とは、神霊が昇り降りするために立てたとても太くて高い柱で、大地と宇宙を結ぶ大切な役目をしている。つぎに「八尋殿」という広い宮殿を建てた。その後、伊耶那岐神は、「おまえの体はどんなふうになっているのか?」と伊耶那美神にお尋ねた。伊耶那美神は、「わたしの体はほとんど完成しているのですが、一か所だけ、なりなりて成り合わないところがあります。」と答えた。伊耶那岐神は、「わたしの体にも一か所だけ、なりなりて成り余れるところがある。そこでどうだろう、お前のくぼんだところに、わたしのとびでたところを差し入れて、国を産もうと思うが、いかに?」と言った。伊耶那美神は、「はい。そうしましょう、では、新しい魂を宇宙からいただくために、天の御柱の周りを廻ろう」と言った。そして、まず8つの島が完成する。淡路島、四国、隠岐の島、九州、壱岐の島、対馬、佐渡島、本州。その他海洋の神、山神、川神、木神、草神、日の神、月の神などを産んで、日本に整って、充実させ始めさせる。伊耶那美神が死んだ後、伊耶那岐神は地獄へ伊耶那美神を救いたかった。黄泉国から生還をはたした伊耶那岐神は、左目を洗うと天照大御神、右目を洗うと月读命、鼻を洗うと速须佐之男命が生まれてきた。[6] 2.中日両国の神話の比較する 2、1 共通なところ 2、1、1 一つ「混沌期」を皮切りに神話が進める

両国の創世神話の中で、すべて1つの「混沌期」が存在している。それに中日両国の創世神話の中で、すべて世界を創造する神が現れた。中国の創世神話で主な代表的な神は世界を開拓した盤古と石を精錬して天を繕った女媧である。日本では記録が完備している家系があり、「七代神様」と呼ばされた神である。[7] 2、1、2 一人で生命を創造できる

男神であろうと、女神であろうと、誰でも一人で生命を創造できる。例えば:盤古は体にある虫が人間に変わった;女媧は泥で人間を作った;伊耶那岐神は体を洗う時も生命を造ることができた。2、1、3 兄と妹の関係で夫婦の関係になった後、生命を創造する

二人で世界を創造する神話であれば、二つは兄と妹の関係で夫婦の関係になったから、一緒に生命を作った。例えば:伏羲と女媧、伊耶那岐神と伊耶那美神などである。2、2 違うところ2、2、1 独身神と偶身神転化する順序

中国の創世神話にはまず独身神、それとも偶身神が世界を創造したが、日本の創世神話には世界を創造した神は偶身神から独身神に変えてきた。女媧は後期神話で伏羲と夫婦になったのに、このときの女媧はもう独身神に属しない。伊耶那岐神は伊耶那美神が死んだ後で、独身神になった。2、2、2 神様の属性

中国の創世神は人間へ行っても神様である。しかし、日本の創世神は普通な人間になったこともある。日本創世神話に、ただ神を生み出す記録があるが、人類を生み出す記録がない。実際には、ある程度で、日本の創世神話に、神と人は1つにしたので、高天原に住んだら神になり、地面に降臨したら人になったと思われる。[8] 終わりに

中日両国は神話に対する研究がヨーロッパより非常に遅くて、研究がまだそんなに深くない。以上の研究を通じて、中日両国が昔からずっといろいろな交流があったと分かる。さらに、両国が類似な環境には自分の特色を持っての文化を創造できた、両国の原始人は自分の理解によって当時のさまざまなことを解釈した。そんなに正確品書く手も、当時の人間が独立に思考できて、進歩になったのを表した。神話というものはそういう理解を反映できる。だから、両国の神話を比較と、研究と、当時に人民の生活や思考の方法を発見できる。比較法を通して、創世神話の三つの共通所と二つの違う所を得た。それぞれは下記の通り:

共通所:

1、一つ「混沌期」を皮切りに神話が進める。

2、一人で生命を創造できる。

3、兄と妹の関係で夫婦の関係になった後、生命を創造する。

違う所:

1、独身神と偶身神転化する順序。

2、神様の属性。もう一つは、この研究を利用して、両国の間で神話についての交流が頻繁になることを期待している、または両国がもっと友好になってほしいである。

[1] 张爱萍。2005.《中日古代文化源流-以神话比较研究为中心》[m]。浙江大学出版社:140 [2] 严绍璗。2004.《比较文学视野中的日本文化-严绍璗海外讲演录》[m]北京出版社:49-50 [3] 张爱萍。2005.《中日古代文化源流-以神话比较研究为中心》[m]。浙江大学出版社:143-144 [4] 严绍璗。2004.《比较文学视野中的日本文化-严绍璗海外讲演录》[m]。北京出版社:41-42 [5] 严绍璗,中西进。1996.《中日文化交流史大系[6]文学卷》[m]。浙江人民出版社:16-32 [6] [7] 张爱萍。2005.《中日古代文化源流-以神话比较研究为中心》[m]。浙江大学出版社:127-132 参考文献 严绍璗,中西进。1996.《中日文化交流史大系[6]文学卷》[m]。浙江人民出版社

严绍璗。2004.《比较文学视野中的日本文化-严绍璗海外讲演录》[m]。北京出版社

叶显恩。2006.《简明话中国》[m]。广西出版社

张爱萍。2005.《中日古代文化源流-以神话比较研究为中心》[m]。浙江大学出版社

日本の五名「別天神」と七代神様、「伊耶那岐神」と「伊耶那美神」 古事記のものがたり:第1話「創世の神々と高天原」

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誠信 声明

私が提出する卒業論文『中日両国の神話についての研究』は、指導教員の指導の下、独自に完成させた研究成果である。本論文の中で引用されている、いかなる形で発表された文字や研究成果についても、すべて注釈をつけている。教員ならびに関係者からの本論文に対する意見やアドバイス等に基づき、訂正したことに関しては、「謝辞」において深く謝意を述べさせていただいた。本論文および資料において、不正な箇所があれば、すべての責任は私が負うことを承諾する。

論文作者:

時:

推荐中日语言文化差异特征研究论文(精)三

各位朋友大家好,我是湖北大学旅行社的导游员小李,大家可以叫我李导。在这里我对大家光临武汉市表示热烈的欢迎,在接下去的时间里将由我为各位提供导游讲解服务,我一定会尽力为大家提供优质的服务,使大家在这次旅游活动中感到开心愉快并有所收获。今天我将和大家一起走进湖北省博物馆,徜徉于历史的长河中,看荆楚风云,听古曲清音,与古人对话。

湖北省博物馆位于武昌东湖之滨,占地面积9100平方米,是我国十大博物馆之一,同时是湖北省收藏、研究、展览历史和革命文物的中心。

首先我向大家简单介绍下湖北省博物馆的历史,他筹建于1953年,“前身”是建国之初成立的湖北省人民科学馆,1953年3月16日经省人民政府批准,在原科学馆的基础上,成立湖北省博物馆(筹备处),并与湖北省文物管理委员会合署办公;1957年正式成立省博物馆。1963年1月正式更名为湖北省博物馆。

他拥有着属于湖北独特的文化特色,大家知道我们武汉市楚文化的故乡,所以该馆建筑具浓郁楚风,呈一主两翼、中轴对称。馆舍由编钟馆、楚文化馆、综合陈列楼组成,这三个馆分别是在99年、05年和07年对外开放的。

省博共收藏文物约70万件,四大镇馆之宝为:郧县人头骨化石、曾侯乙编钟、越王勾践剑、元青花四爱图梅瓶。可是由于今天时间的关系我们就只能重点游览被称为“天下第一剑”的越王勾践剑。好,说话间我们现在来到的展有越王勾践剑的楚文化馆。请大家跟紧我的脚步。

楚文化馆作为湖北省博物馆展馆的一翼,于20xx年12月建成开馆。楚,既是国名,又是族名。楚国在公元前223年被秦国灭掉,立国约有八百年。二十世纪六十年代以来,湖北发掘了五千余座楚墓,出土的大量文物展现了楚国社会生活的各个方面。楚文化作为先秦时期的一个区域文化,独具一格、自成一体、博大精深,是构成先秦华夏文明的重要组成部分。该展览分为八个部分,集中地展出湖北地区出土的楚文物精华,力求全面展示楚文化的辉煌。那么现在呈现在大家面前的就是天下第一剑:越王勾践剑。该剑于1965年12月出土于湖北望山1号楚墓。剑全长55.6厘米,剑格宽5厘米,剑型挺拔、庄重,制作精良考究,保存完好如新,剑身上面满饰黑色菱形暗纹,剑格的一面由绿松石镶嵌,组成美丽的图案,另一面则镶嵌着蓝色琉璃,整个装饰显得典雅、华贵。靠近剑格处有两行错金鸟篆铭文,内容为“越王鸠浅自乍用剑”。“鸠浅”就是“勾践”,这八字铭文准确无误地标明了剑主人的身份和名字,使我们知道面对的是一件名副其实的稀世珍宝。越王勾践剑出土时插在木质剑鞘里,出鞘时寒光闪闪,耀人眼目,剑刃薄而锋利,令人赞叹不已。平时我们只是在电视里看到闪着寒光的剑,今天大家可以一饱眼福了。

经现代仪器分析测定,勾践剑为青铜铸造,其主要成分为铜、锡、铅、铁、硫等。特别需要指出的是,剑脊的含铜量高,剑因此而具有较强的硬度,剑刃含锡量高,剑因此而更为锋利。越王勾践剑是一把采用复合金属铸造工艺制作的青铜剑。复合金属铸造工艺,是我国古代劳动人民在合金冶炼技术方面的重要创造,其工艺过程大致是先浇铸含铜量高的剑脊,然后再浇铸含锡量高的剑刃。大家知道铜的熔点高于锡,按熔点高低依次浇铸,既不会使先浇铸部分熔掉,又可将两部分复合为一体,使剑刚柔相济,既坚韧有加又锋利无比。也许大家在见到越王勾践剑之前,就已听说此剑削铁如泥,这并非夸张之说。虽然我们现在不能用这件国宝去削铁,但我们在稿纸上测试时,惊奇的发现提剑轻轻一划,便有数十张纸破开,真可谓名不虚传,不愧为古代工匠巧夺天工的杰作。

越王勾践剑作为建国以来湖北省出土的一件不可多得的文物珍品,其当之无愧的原因,不仅在于剑本身所具有的精美绝伦的工艺价值,还由于剑主人曾在中国历史上留下了一段显赫的经历,那便是勾践“卧薪尝胆”的故事。

勾践是春秋末年越国国君,在位期间,正值个诸侯兼并战争连绵不断的春秋晚期。地处长江下游的吴、越两国,多年彼此征伐,互攻不休。越国当时在楚国的帮助下迅速的强大起来。越王勾践曾经战胜吴军,吴王阖闾受伤而死。阖闾死后,其子夫差继位,立志为父报仇。公元前496年,吴王夫差率精兵攻打越国大获全胜,使越王勾践沦为阶下囚,被吴王扣押了三年。越王勾践在忍受了三年的屈辱生活后回到越国,在大臣范蠡、文种的辅佐下,卧薪尝胆、励志图强,用艰苦的生活磨练自己的意志。每天夜里,他睡在柴堆上,意志消沉时,就尝一尝苦胆以激励自己,经过十年忍辱负重、十年韬光养晦,终于使越国由弱转强。公元前473年,越王勾践率精兵灭了吴国,迫使吴王夫差以剑自刎,并进而成就了越国霸业。

他发奋图强的精神经过两千多年来许许多多仁人志士的继承和发扬已经汇入了我国优秀传统文化思想的宝库。

越王勾践剑,是迄今为止所发现的越王青铜兵器中唯一一件与勾践有关的文物。它的出土曾引起我国文物、考古、历史界的广泛关注。在对越王勾践剑的深入研究中,出现了有关越王勾践剑的两大难解之谜。

越王勾践剑的第一个难解之谜是,地处长江下游的越国国君勾践的自用剑,为什么没有留存于越国故地,却出土于千里之外的楚国贵族墓葬中?相信大家在参观的过程中就已经有所察觉并有此疑问。一部分学者认为,这柄珍贵的青铜剑是在楚国灭亡越国的战争中,被楚国国君缴获作为战利品而流入楚国贵族之手的。而另一部分学者则认为,江陵望山1号墓的年代在楚灭越之前,因此,勾践剑不可能是战利品,而更可能是楚、越联姻的礼品。据史书记载,越王勾践的女儿确实是楚昭王的宠姬,勾践剑也有可能是作为嫁妆入楚的。两种观点,谁更符合实际目前尚无定论。

越王勾践剑的第二个难解之谜是千年不锈之谜。它埋入地下两千四百多年为何不生锈?根据现代科学测定,剑的表面大部分地方含有不同程度的硫化铜。硫化铜可以防锈。因此,有的专家认为,当时人们已掌握了运用硫化铜进行表面防锈处理的先进工艺,这是越王勾践剑之所以千年不锈的根本原因。但持不同意见的学者却认为,越王勾践剑千年不锈的真正原因在于其特殊的密封条件,并且浸泡于酸、缄适度的中性水中。专家们仁者见仁,智者见智,孰是孰非?又是一个难解之谜。

越王勾践剑以其珍贵的历史价值和工艺价值,无可辩驳地展示出中华民族光辉灿烂的古代文化。1973年,中日邦交正常化,越王勾践剑曾作为首批文化使者东渡扶桑,赴日本展出。展出期间引起了日本国内巨大的轰动。当时担任日本首相的田中角荣先生,对这件中国文物珍品表示了极大的兴趣,并给予高度评价。日本《朝日新闻》社除广泛宣传报道外,还特意要求复制了一件,陈放于该社陈列室中,作为永久的收藏。我国著名的文学家,古文字学家郭沫若老先生在参观湖北省博物馆时见到这件文物珍品后,感慨万分,曾赋诗一首:

越王勾践破吴剑,专赖民工字错金。

银缕玉衣今又是,千秋不朽匠人心。

两千四百年前,我们祖先用智慧、血汗创造了令人瞩目的古代文明。作为今人的我们,应该继承先人留下的这份珍贵遗产,再创造出新世纪的现代文化,向世人证明中国无愧于“物华天宝,人杰地灵”的美誉。

好了,朋友们,湖北省博物馆就为大家介绍到这里,希望这次历史之旅能在您的心里留下深深的震撼,也希望不久以后能等到大家的再次来临。相信大家一定会不虚此行!

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