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昆明当好排头兵心得体会和感想 部队争当排头兵心得体会(七篇)

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昆明当好排头兵心得体会和感想 部队争当排头兵心得体会(七篇)
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从某件事情上得到收获以后,写一篇心得体会,记录下来,这么做可以让我们不断思考不断进步。那么心得体会怎么写才恰当呢?那么下面我就给大家讲一讲心得体会怎么写才比较好,我们一起来看一看吧。

推荐昆明当好排头兵心得体会和感想一

清光绪十六年(1890年)舒藻《重修太和宫碑记》详细记载了太和宫创建的历史:“滇南苴兰(昆明)会垣东关外,距城十五里许,有山鸣凤,又俗名鹦鹉山。前明万历壬寅年(1620xx年),道士徐正元叩请云南巡抚陈公用宾,会同黔国公沐公昌祚,右都督沐公睿,御使刘公会于是山之巅,仿照湖广武当山七十二峰之中峰修筑紫禁城,冶铜为殿,铸供真武祖师金身。名其宫曰‘太和’,亦仿照武当山中峰宫名也。其时并建三元、环翠二宫,所供圣神仙佛,各有专司,瞻拜者历历可溯。而其殿宇,概以‘太和宫’统之。其地左挹华山之秀,金马腾辉;右临昆海之滨,碧鸡焕彩,洵为滇南一胜境也。乡人称之或曰金殿,或曰金顶,任其信口而出耳。”

这段碑文依据史料,叙述了仿湖北武当山始创昆明太和宫金殿的时间、创始人、冶铜为殿、供奉真武金身的道观规模,以及鸣凤山的山势。明万历三十年(1620xx年)道士徐正元“叩请云南巡抚陈用宾”,陈用宾会同黔国公沐昌祚、右都督沐睿、御使刘会,同登鸣凤山巅,商定仿武当山中峰兴建太和宫。这与明万历甲辰年(1620xx年)正月太和宫创始人陈用宾所撰《鼎建太和宫记》是一致的。舒藻的碑记用白话叙述,通俗易读。陈用宾的碑记文言纪事,不容易读。

舒藻碑文中所说:“其时并建三元、环翠二宫”一段不准确。其实创建太和宫前七年,就已建“环翠宫”。陈用宾撰《环翠宫记》称:“余抚滇之三年,命官于鸣凤山建环翠宫,其中为阁,祀吕师(吕洞宾),殿有二,王、陶天君,何、柳二仙并祀阁上。” 陈用宾,福建晋江人,明进士,万历二十一年(1593年)以右佥都御使巡抚云南。陈用宾“抚滇之三年”,即万历二十三年(1595年),他“命官于鸣凤山建环翠宫”。万历三十年(1620xx年)“叩请”陈用宾兴建太和宫金殿的“道士徐正元”,就是环翠宫的道士。

正如陈用宾《鼎建太和宫记》所述:“及抚滇之九年”,即万历三十年(1620xx年),陈用宾“偕卜胜东城,相度山原间几一舍许无当者,延伫环望,真气英英,连蜷环翠宫左,扪萝视之,适彩雉从中盘起,玉局宛然,无亦光岳之閟有待欤?” 陈用宾偕沐昌祚、沐睿、刘会等登相度山,卜胜选址,已见山势“连蜷环翠宫左”。这清楚说明,明万历三十年陈用宾为太和宫选址时,已有环翠宫。太和宫金殿、三元宫于明万历三十年(1620xx年)动工兴建,“始事竣工,俱以王正之月,甫一载而缮定”。“万历甲辰(1620xx年)岁春正月吉旦”,陈用宾撰立《鼎建太和宫记》。

民间传说陈用宾曾在鸣凤山“三遇吕洞宾”,是吕仙引示他鸣凤山是“洞天福地”,所以他“抚滇之三年”即“命官于鸣凤山建环翠宫”,“其中为阁祀吕师”。环翠宫建成后,陈用宾曾撰楹联:

春梦惯迷人,一品朝衣,误了九寰仙骨,鸡鸣紫陌,马踏红尘,军门向那头跳出?

空山曾约伴,七闽片语,相邀六诏杯茶,剑影横天,笛声吹海,先生从何处飞来!

陈用宾身居云南“军门巡抚”,既迷恋官场“一品朝衣”,又向往道教“九寰仙骨”,矛盾的心情,只有请问“剑影横天,笛声吹海”飞来的吕仙人,他该“向那头跳出”?

陈用宾《建太和宫记》开头有这样一段话:“考玄帝天乙之精,乘玄枵当帝座,迹最著于太和,贞观而还,代能尊祀。我成祖文皇帝穆有遐思,式廓其制,千古让隆焉……”说是真武玄帝系“天乙之精,乘玄枵当帝座”,真武神迹,太和山(即武当山)最著名。从唐贞观年间以来,世代尊祀。明成祖朱棣崇信真武,敕令大修武当山,千古隆重奉祀真武。武当山有“真武神,永乐像”的传说,以后天下真武宫都按这“永乐像”塑真武。

明崇祯十年(1637年)金殿移到宾川鸡足山,史志碑记所载是一致的。明崇祯十年(1637年)云南巡抚张凤翮将铜殿移到宾川鸡足山天柱峰。天柱峰为此又称“金顶”。鸡足山铜殿毁于1966年“文化大革命”“扫四旧”期间。张凤翮移铜殿时,太和宫铜殿的基座、下层平台砂石浮雕栏杆未拆,保存至今。

清康熙年间重建鸣凤山太和宫铜殿,“范铜至五百余万之多”(250吨)。1980年清洗铜殿烟尘污垢时,发现铜殿正梁上通体被烟垢覆盖的铭文,梁中间的字被藻井遮盖,我爬上去看是“大清康熙十年岁次辛亥大吕月十有六日之吉平西亲王吴三桂敬筑”。铭文证实清康熙九年(1670年)吴三桂修葺太和宫,重建真武铜殿,铜铸神像,竖“铜幡竿十余丈,亭亭特立”。康熙十年(1671年)十月十六日竣工落成。因吴三桂康熙十二年(1673年)举兵反清,故方志碑记只称“清康熙九年重铸”,回避是吴三桂重铸铜殿。

吴三桂重建真武铜殿后,铸了一口“七星宝剑”悬挂在铜殿内,这就是碑记中所载真武“慧剑高悬,常伏魔而制怪”。吴三桂又将其使用过的一把木柄大刀,重12斤(6公斤)留在太和宫,以炫耀其武威。

铜殿正面,清康熙三十三年甲戌(1694年)云贵总督王继文书悬“南无无量寿佛”铜匾。“无量寿佛”即“阿弥陀佛”,不少人感到疑惑,一代名儒的云贵总督,为什么在真武道宫挂佛教匾?武当山记载,永乐十四(1420xx年)武当天柱峰顶建真武铜殿时,峰巅咫尺地盘上已有佛教无量寿佛殿,佛道互不相让。得知建铜殿是圣上旨意,佛家折中,“让地不让佛”,真武殿上挂“无量寿佛”匾,朝拜真武同时,也颂“南无无量寿佛”。鸣凤山太和宫仿武当山中峰兴建,王继文依据武当山典故悬匾。

清道光二十五年(1845年)《重修二天门碑记》记载了清代昆明两次地震的情况:“乾隆年间,滇省地震,星旗救劫,厥有灵徵”。这次地震影响不大。道光“十三年(1833年)七月二十三日,滇地大震,復得殿宇牌坊,客座茶房,震摇摧坏。”太和宫更大的劫难是咸丰年间,太和宫毁于兵燹,三元宫化为灰烬。每一次损坏后,都不同程度地进行了修缮。其中,光绪十六年(1890年)至光绪三十一年(1920xx年)前后十五年间,太和宫住持李明清劝募“缙绅王炽、余安转禀督办云南矿物、前巡抚唐公炯,倡铸铜一万斤,并遍约同人,量力捐助。铸造亭子、侍座神像、格扇瓦片,并重修山门、牌坊、殿宇,众作新之。”

太和宫金殿于1950年军事接管,定为“昆明市金殿名胜区”。先后隶属文教局、建设局、文化局、园林局管理。1966年“文化大革命”“扫四旧”期间,各殿泥塑神像被破坏,殿宇坍塌,荒烟蔓草。1968年又将太和宫划属昆明力车胎厂作宿舍,1970年由昆明市城建局收回。

粉碎“四人帮”以后,逐年修复古建筑,重建雷神殿、老君殿、三丰殿,翻修三座天门、棂星门,新建长廊亭台,局部维修明代城墙。1983年兴建山巅钟楼,保护原昆明城宣化楼之明代永乐大钟。

1983年至1991年,在鸣凤山东面、南面新征土地273亩,兴建占地500亩规模的“昆明园林植物园”。园林植物园分为十二个专类花卉园区茶花园、温室花卉区、杜鹃园、水景园、木兰园、蔷薇园、竹类植物园、裸籽植物区、珍稀濒危植物区、造园示范区、鹦鹉园(盆景区)和雪松草坪园。省、市政府先后投资达800余万元。

为迎接1999年在昆明举办的世界园艺博览会,1997年至1999年,市政府先后在鸣凤山金殿投资20xx万元,全面维修太和宫古建筑群,整修钟楼,开辟钟楼旅游服务区,兴建大型观赏温室,新建杜鹃精品园,开发兰圃和蕨类植物园,重建秋园餐厅,改造旅游招待所,重建园内旅游厕所。在金殿自筹资金兴建“中国金殿博览苑”的基础上,进一步开发金殿青铜文化旅游景点……这次整治修建,为太和宫金殿创建四百年来规模最大的一次修葺和兴建。金殿名胜区1999年跻身云南省一流风景名胜区。

推荐昆明当好排头兵心得体会和感想二

清光緒16年(1890年)舒藻《太和宮の碑記を重修します》は太和宮の創建の歴史を詳しく記録しました。前明万暦壬寅年(1620__年)、道士徐正元は雲南省を巡撫して公共賓館を撫でるようにお願いしました。貴州国公沐公昌皇帝と一緒に、右都督は公叡に浴し、御使劉公会は山の頂に立ち、湖広武山七十二峰の中で紫禁城を修築し、銅を殿にして、真武祖の金師を鋳造しました。名其宮は太和と言い、武を模した山峰宮の名もある。当時は三元、環翠二宮を建立しました。聖神仙仏はそれぞれ専門司があります。その殿宇は、すべて「太和宮」で統括しています。その地の左挹華山の秀、金馬の騰輝;右は昆海の浜に臨んで、碧鶏の煥彩、実に雲南南の一勝境です。郷人称は金殿、或いは金頂といい、その信心に任せて耳から出ます。」[3]

この碑文は史料に基づいて、湖北武当山が昆明太和宮金殿を創始した時、創始者、銅を殿にして、真武金身を祭る道観の規模と鳳山を鳴らせる山勢をまねることを述べました。明万暦三十年(1620__年)の道士徐正元は「雲南省を巡撫して陳用賓客を撫でるように」と言って、陳用賓客会は貴州国家公が皇帝に沐浴し、右都督は叡、御使劉会を沐浴し、鳳凰山の山頂に登って、武当山峰を模して太和宮を建設することを約束しました。これは明万暦甲辰年(1620x__)正月太和宮創始者陳用賓が著した「鼎建太和宮記」と一致しています。舒藻の碑記は白話で述べられ、通俗的に読みやすい。陳用宾の碑文は文語録で、読みにくいです。

舒藻の碑文の中で言います:“その時そして3元を建てて、環翠の2宮”の1段は正確ではありません。太和宮を創建した七年前には、すでに「環翠宮」が建てられていました。陳用賓の『環翠宮記』は、「余撫滁の三年間、鳴鳳山に環翠宮を建てることを命じる。その中には閣として呂師(呂洞賓)を祭り、殿には二、王、陶天君、何、柳二仙を祭る。」陳用宾、福建晋江人、明進士、万暦二十一年(1593年)は右に都御使を付けて雲南を巡撫します。陳用宾は「溿之三年を撫でる」ということです。即ち、万暦二十三年(1595年)、彼は「命官于鳴鳳山建環翠宮」です。万暦三十年(1620__年)に「サジダ」という陳用賓客が太和宮金殿を建設した「道士徐正元」は環翠宮の道士です。

陳用賓の『鼎建太和宮記』のように、「及び溿溿を撫でる九年」、即ち万暦三十年(1620__年)、陳用賓客は「偕に東城を占って、相度山原間几一は当を得ない者を捨てて、立ち止まって見渡すと、真気英英、連蜷環翠宮左、手を巻いて見て、適彩雉は中盤から玉局の光岳がないか?」陳用宾は皇帝に偕に沐浴し、叡に浴し、劉会などは相度山に登って、場所を占って、すでに山勢の「連蜷環翠宮左」を見ました。これははっきりと説明しています。明万暦三十年の陳用賓客は太和宮の所在地を選んだ時、環翠宮にすでにありました。太和宮金殿、三元宮は明万暦三十年(1620x__)に着工して建設されました。「万暦甲辰(1620 x__)春正月吉旦」、陳用賓館が「鼎建太和宮記」を作った。

民間の伝説の陳用宾はかつて鳳山の“三遇呂洞賓”を鳴らして、呂仙が彼を導いて鳳山を鳴らすのが“洞天福地”なことを示して、だから彼の“溿之三年を撫でる”はつまり“命官は鳴鳳山で環翠宮を建てます”、“その中は閣のために呂師を祭ります”。環翠宮が完成した後、陳用賓はジャカランダを作ったことがあります。

春夢は人を魅惑することに慣れて、1品の朝の服、9世の仙骨を誤って、ニワトリは紫の陌を鳴いて、馬は紅塵を踏んで、軍の扉はあちらの端に向って跳び出しますか?

空山はかつて伴侶を約束して、7閩片語、六詔のお茶を誘って、剣影の横天、笛の音は海を吹いて、先生はどこから飛んできますか?

陳用宾は雲南の「軍門巡撫」に住んでいます。官界の「一品朝衣」に夢中になり、道教の「九万仙骨」に憧れています。矛盾した気持ちは「剣影横天、笛の音が海を吹く」ことを聞いただけです。

玄帝の天乙の精を試験して、玄を乗って帝の席になって、跡は太和を最も著して、貞観は返して、代は尊ぶことができます。私は祖先文学の皇帝となりました。ムーには思いがあります。式廓その制度は、千古に隆焉を譲られました。真武玄帝系の「天乙の精、乗玄非常に帝座」と言われています。真武の神跡、太和山が一番有名です。唐の貞観の年間から、代々祭る。明成祖の朱山吹は真武を尊信し、大武当山を勅命し、千古には厳かに真武を祭る。武当山には「真武神、永楽像」という伝説があります。その後、天下の真武宮はこの「永楽像」を押して真武を作ります。

明崇禎十年(1637年)金殿は目的川鶏足山に移りました。史志碑記に載せられているのは同じです。明崇禎十年(1637年)雲南巡撫張鳳鳥は銅殿を賓川鶏足山の天柱峰に移しました。天柱峰はこれを「金頂」ともいう。鶏足山銅殿は1966年の「文化_革命」「四旧掃除」期間に壊されました。張鳳鳥は銅殿を移す時、太和宮銅殿の土台、下層プラットフォームの砂石レリーフの欄干は取り外されず、今まで保存されています。

清康煕年間に鳴鳳山太和宮銅殿を再建し、「范銅から五百万円余り」(250トン)。1980年に銅殿の煙と塵の汚れを洗う時、銅殿の正梁の上で全体体が煙の垢に覆われている銘文を発見して、梁の中間の字は藻井に覆い隠されて、私は登ってみます。銘文は清康煕9年(1670年)呉三桂が太和宮を修理し、真武銅殿を再建し、銅は神像を鋳造し、「銅の幡竿十余丈、亭亭特立」を立てたことを確認しました。康煕十年(1671年)十月十六日に竣工します。呉三桂康煕12年(1673年)に兵を挙げて反清したので、方志碑記は「清康煕9年再鋳」と称し、呉三桂重鋳銅殿を回避した。

呉三桂は真武銅殿を再建した後、「七星宝剣」を鋳造して銅殿内に吊るしました。これは碑記に載せられた真武「慧剣高懸、常伏魔而製怪」です。呉三桂はまたそれを使ったことがある木柄の太刀を、重さは12斤(6キロ)で太和宮に残して、武威を誇示します。

銅殿の正面、清康煕三十三年甲戌(1694年)雲貴総督の王継文書は「南無量寿仏」の銅額を懸けています。「無量寿仏」は「阿弥陀仏」というもので、多くの人が疑問に思っています。一世代の名儒の雲貴総督は、なぜ真武道宮に仏教の額を掛けたのですか?武当山によると、永楽十四(1420__年)の武が天柱峰の頂に真武銅殿を建てた時、山頂付近の地盘にはすでに仏教の無量寿仏殿がありました。銅の殿を建てるのが聖上の意図なことを知っていて、仏家の折衷、“譲ります仏陀”、真武の殿の上で“無量の寿仏”の額を掛けて、真武に礼拝しますと同時に、“南無量の寿仏”をも賛美します。鳳山の太和宮は武をまねて山中の峰に建設して、王継文は武当山の典故によって額を掛けます。

清道光二十五年(1845年)の「二天門碑記の修繕」は清の昆明の二回の地震の状況を記載しています。今回の地震はあまり影響がありません。道光「十三年(1833年)七月二十三日、溿地大地震があり、殿宇鳥居、客席茶房を回復しました。揺れで壊れました。」太和宮の更なる災難は咸豊年間で、太和宮は兵禍に倒れ、三元宮は灰になった。破損するたびに、ある程度の修繕が行われました。その中で、光緒16年(1890年)から光緒31年(1920__年)までの15年間、太和宮住職李明清は「貴紳王灼、余安転稟監督雲南鉱物、前巡撫唐公炯、銅貨1万斤の鋳造を提唱し、同人を通じて助成した。あずまやや、お侍座の神像、扇瓦を鋳造して、また山門、鳥居、殿宇を修築して、みんなが新しいのを作ります。

太和宮金殿は1950年に軍事的に接収され、「昆明市金殿名勝区」と定められました。前後して文教局、建設局、文化局、庭園局に属して管理します。1966年「文化_革命」「四旧掃除」の間に、各殿の泥塑神像が破壊され、殿宇が崩れ落ち、荒煙蔓草が発生しました。1968年にまた太和宮を昆明力タイヤ工場に属して寮を作って、1970年に昆明市城建局から回収します。

「四人組」を粉砕した後、年々古い建築を修復し、雷神殿、老君殿、三豊殿を再建し、三つの天門、格子星門を修復し、長い回廊亭台を新築し、部分的に明代城壁を補修します。1983年に山頂の鐘楼を建てて、元の昆明城宣化楼の明代永楽大鐘を保護します。

1983年から1991年まで、鳳凰山東面、南面で新しく273ムーの土地を募集し、500ムーの規模の「昆明園林植物園」を建設しました。庭園植物園は12種類の専用花卉園茶花園、温室花卉区、ホトトギス園、水景園、木蘭園、バラ園、竹類植物園、裸種植物区、珍しい絶滅危惧植物区、造園模範区、オウム園(盆栽区)と雪松芝生園に分けられます。省、市政府は相前後して800万元余りを投資しました。

1999年に昆明で開催された世界園芸博覧会を迎えるため、1997年から1999年にかけて、市政府は前後して鳴鳳山金殿に20万元を投資し、太和宮古建築群を全面的に修理し、時計台の観光サービスエリアを開拓し、大型観賞温室を建設し、ホトトギス精品園を新築し、蘭園と蕨類植物園を開発し、秋園レストランを再建し、観光接待所を改造し、園を再建しました。観光トイレです。金殿自己資金で「中国金殿博覧苑」を建設した上で、さらに金殿青銅文化観光スポットを開発しました。今回の整備整備は、太和宮金殿のために四百年来最大規模の改修と建設を行いました。金殿名勝区は1999年に雲南省の一流の景勝地に入りました。それは鳳山の上の最高の建物で、楼に登って四方を眺めて、視野はきわめて広くて、東郊の遠い理想の地です。

推荐昆明当好排头兵心得体会和感想三

龙门是昆明的一个重要景点,以往我们都是用历史、诗词歌赋的眼光去欣赏它,现在我们不妨换个方式,从风水的角度去观察龙门。

何为“风水”?从表面上看,是指风和水,即自然界中的现象,因此古往今来对“风水”一词又有种.种不同的解释。历史上最早给风水下定义的是晋代的郭璞,他在《葬书》中说:“葬者,乘生气也。气乘风则散,界水则止。古人聚之使不散,行之使有止,故谓之风水。”而《辞海》对于风水一词是这样定义的:“风水,也叫勘舆,旧中国的一种迷信。认为住宅基地或坟地周围的风向水流等形势能招致住者或葬者一家祸福,也指相宅、相墓之法。”近年来学者们对《辞海》的定义持不同见解,主要倾向是不同意将风水与迷信划等号。他们认为风水是古人在还不懂得现代很多科学道理的情况下,讲究的一种天人合一、人与自然和谐发展的环境工程学!下面,我们就从以下几个不同的角度去欣赏龙门的风水:

一、龙门为什么要修建于山上?

提这个问题也许会有人哑然失笑。云南94%的地方是山区,平地都拿来盖楼房了,龙门当然要修在山上啦!这种认识是很片面的,古时候在修建一个建筑物时都喜欢去看风水,看风水首先要看“龙”。龙即是龙脉,风水中以龙的变化来代表山脉的走向、起伏、转折、变化。其中的主山为“来龙”,由山顶蜿蜒而下的山梁叫“龙脉”,也称去脉,成语“来龙去脉”就源于此。山脉有不同的走势,因此龙也有不同的姿势。风水学把龙势分为五种,即:

1、南北走向的称为正势;

2、由西向东的称为侧势;

3、逆水而上的称为逆势;

4、顺水而下的称为顺势;

5、首尾相顾的叫回势。

这里顺便说一下,龙的侧势为什么是“由西向东”,为不是“由东向西”呢?风水师常以我国的四条大河来划分龙脉,称为三大干龙。长江以南的山脉为南龙,长江与黄河之间的山脉为中龙,黄河、鸭绿江之间的山脉为北龙。三大干龙的起点为昆仑山,昆仑山位于中国的西部青藏高原,所以这里要说“由西向东”。把龙门修建于昆明西山上,正是考虑到风水中“龙”的讲究。

二、龙门修建于西山的东麓,也是有讲究的!

看风水除了看“龙”以外,还有两个重要因素,第一是看“水”,现实生活中,有关“水”的讲究比比皆是,比如:香港汇丰银行的楼顶就有一个大蓄水池,这既不是游泳池,也不是养鱼池,而是“风水池”!风水学认为“水”是聚财的,五行相生“金生水”,黄金熔化后就变成了“水”一样的东西。“水”在风水学里代表着财富!第二是看“向”,即朝向。风水书里写道:“龙势向西,宜坐北向南(阳坡);龙势南北,以选址在东坡。总的原则是背山面水迎吉避凶。”昆明的西山是一座南北走向的山脉,即“龙势南北”,所以西山大部分重要建筑,包括龙门,都选址于西山的东坡,而最东面正好对着滇池水,的确是一块风水宝地!

昆明的另外两个穴位,财穴和权穴在哪里呢?财穴位于昆明东郊鸣凤山一带,你到那里游览可以发现那里的树木很高大,郁郁葱葱,说明什么?说明树下面的土壤很厚,土是生金的,这里必然是昆明的财穴。所以吴三桂要把金殿修在这里,铜以前是一种贵重的金属,铸造铜钱的原料之一;四a级景点世博园也选址在这里,1999年世博会的召开,带动了昆明城市的建设,推动了云南经济的发展,为云南人民创造了巨大的经济收入,因此把鸣凤山周围称为昆明的财穴实不为过!

三、龙门三清境的财神。

在三清境灵宫殿对面供奉着一尊神像,他右手持鞭,左手握着一个元宝,右脚脚下爬着一只猛虎,这就是我们熟悉的财神!在中国人的传统民俗观念中,认为财神是掌管天财富的神仙;倘若得到他的保佑眷顾,便肯定可以财源广进,家肥屋阔。民间流传的财神有很多,但大致可分为文财神和武财神两种:

第一文财神,文财神有两个,一是财帛星君,另一个则是福禄寿三星。财帛星君是一个锦衣玉带,左手捧着元宝,右手拿着“招财进宝”卷轴,外形富态的一个长须长者。相传他是天上的太白星,职衔是“都天致富财帛星君”,专管天下的金银财帛。福禄寿三星中,本来只有“禄星”才是财神,但因为三通常是三位一体,帮此福寿二星也因而被人一起视为财神供奉了。

第二武财神,武财神也有两个,一个是关羽、另一个是赵公明。关羽是三国名将,形象威武,他不但忠勇感人,而且能招财进宝,护财避邪。我们龙门三清境的这尊财神,就是另一个武财神赵公明,赵公明又名赵云,是一位威风凛凛的猛将,民间相传他能够降妖伏魔,而且又可以招财利市,所以北方很多商户均喜欢把他供奉在店铺中,而在南方的商户则大多供奉关公。财神的供奉也是有讲究的,担任文职的,以及受雇打工的人均益摆放或供奉文财神;至于那些经商做老板,以及当兵当差从事武职的人,则应该摆放或供奉武财神。

文章到此暂且停笔,龙门风水的种.种,还需要我们用心学习,不断观察,进一步揣摩。相信在导游讲解中,用风水讲龙门,的确可以收到意想不到的效果,有兴趣的导游同仁们不妨一试。

推荐昆明当好排头兵心得体会和感想四

昆明地处云贵高原中部,位于东经102度10分至103度40分,北纬24度23分至26度22分,东西最大横距140千米,南北最大纵距220千米,城区距首都北京2100千米(航空线),南达中越边境515千米,西抵中缅边境876千米,西南至中老边境906千米。昆明地理位置属北纬亚热带,然而境内大多数地区夏无酷暑,冬无严寒,具有典型的温带气候特点,素以“春城”而享誉中外。景观:西依西山之畔,是游览观光的理想之地。昆明周围,东有二碑,千佛塔,阿庐古洞,彩色沙林,南有抚仙湖,星云湖,九龙池,通海秀山;西有安宁温泉,禄丰古生物化石遗址;北有武定狮子山,禄劝彝文摩岩石刻。可为景点多矣,其中滇池和路南石林均为国家重点风景名胜区。

【行政区划】

昆明市下辖6区、4县、3自治县、1市:【主城区:盘龙区、五华区、西山区、官渡区、呈贡区、】、【副城区:富民县、嵩明县、宜良县、安宁市、晋宁县】、【远郊区县:东川区、寻甸县、石林县、禄劝县】。(数据:20__年)

①主城区

五华区,总面积397.86k?,总人口855521人,下辖10个街道办事处。区人民政府驻华山街道。

盘龙区,总面积345.83k?,总人口809881人,下辖10个街道办事处,2个镇。区人民政府驻拓东街道。

官渡区,总面积634.96k?,总人口853371人,下辖10个街道办事处。区人民政府驻关上街道办事处。

西山区,总面积791.14k?,总人口753813人,下辖10个街道办事处。区人民政府驻西苑街道。

呈贡区,总面积461.00k?,总人口310813人,下辖10个街道办事处。区人民政府驻龙城街道。

以上五个市辖区为昆明市的主城区,即市内五区。

以下是四个行政辖区范围:

五华区辖北门、虹山、西站、华山、武成、西坝、大观、崇仁、莲华、新村、长春、小南、南强、黑林铺14个街道办事处和厂口乡、沙朗白族乡。

盘龙区辖环城、珠玑、东华、董家湾、拓东、联盟、茨坝、龙泉8个街道办事处和小河、双龙、双哨3个乡。

官渡区辖关上、金马、东站、太和4个街道办事处,大板桥、小板桥、官渡3个镇,小哨、矣六、六甲3个乡和阿拉彝族乡。

西山区辖棕树营、马街、金碧、土桥、永昌、福海、前卫7个街道办事处,碧鸡、海口2个镇,团结彝族白族乡、谷律彝族白族乡。

②副城区

富民县,总面积993k?,总人口145554人。下辖1个街道办事处,5个镇,县人民政府驻永定街道。

嵩明县,总面积1357.29k?,总人口287095人。下辖1个街道办事处,3个镇,县人民政府驻嵩阳街道。

宜良县,总面积1873k?,总人口419400人。下辖2个街道办事处,3个镇,2个乡,县人民政府驻匡远街道。

安宁市,总面积1313k?,总人口341341人,20__年gdp120.62亿元。下辖9个街道办事处,市人民政府驻连然街道。

晋宁县,总面积1236.37k?,总人口283784人。下辖1个街道办事处,4个镇,2个乡,县人民政府驻昆阳街道。

③远郊区县

东川区,总面积1858.79k?,总人口271917人。下辖1个街道办事处,6个镇,1个乡,区人民政府驻铜都街道。

寻甸回族彝族自治县,总面积3598k?,总人口457068人。下辖1个街道办事处,9个镇,4个乡,县人民政府驻仁德街道。

禄劝彝族苗族自治县,总面积4234.78k?,总人口39万人。下辖1个街道,9个镇,6个乡,县人民政府驻屏山街道。

石林彝族自治县,总面积1725k?,总人口24万6220人。下辖1个街道办事处,3个镇,1个乡,县人民政府驻鹿阜街道。

④托管区域

下列区域不由所属行政区域直接管理,而直接由市政府派出机构管理,级别与区县同级,并建有公安局,环保局等行政机构。

国家级昆明高新技术产业开发区(高新区),1992年8月成立,管理呈贡新区马金铺街道办事处75%的区域及五华区人民西路以北,昌源路以东,海屯路以南,二环快速以西的八个社区。

国家级昆明经济技术开发区,1992年5月成立,管理官渡区小板桥街道经济园社区、阿拉街道办事处及呈贡新区洛羊街道办事处。

国家级滇池旅游度假区,1992年10月成立,管理西山区盘龙江以西,广福路以南,船房河以东前卫街道办事处的4个社区,福海街道办事处的4个社区的部分区域,以及呈贡新区的大渔街道办事处。

空港经济区,20__年成立,管理官渡区大板桥街道办事处。

倘甸产业园区轿子雪山开发区,20__年成立,管理东川区红土地镇、舍块乡,禄劝县的转龙镇、雪山乡、乌蒙乡,以及寻甸县的倘甸镇、凤合镇、联合乡、金源乡等共9个乡镇地区,辖下94个村民委员会,面积1837.54k?,人口约22.3万人。

阳宗海风景名胜区管理委员会,20__年7月成立,管理阳宗海周边的呈贡区七甸街道、宜良县汤池街道、澄江县阳宗镇共38个村委会(社区),总面积546k?,人口9.5万人。

海口新区,20__年2月28日成立,管理西山区海口街道。

泛亚科技新区,20__年4月15日成立,管理五华区黑林铺街道、普吉街道。市行政中心驻呈贡区吴家营街道。

【历史沿革】

名称由来:昆明(kūn míng),括号中为汉语拼音;昆明(ㄎㄨㄣˉㄇㄧㄥ?),括号中为注音符号或注音字母。

“昆明”一词作为地名,在唐代以前很难稽考。关于“昆明”一词的起源,有多种说法,大多数学者认为,“昆明”最初是我国西南地区一个古代民族的族称。“昆明”在中国古代文献中写作“昆”、“昆弥”或“昆淋”。早期并非城市名称,而是居住在中国西南地区即今日的云南西部、四川西南部的一个古代民族的族称。

见诸记载,“昆明”一词的出现,可追溯到汉武帝时期。当时的著名史学家司马迁在《史记·西南夷列传》中写道:“西自同师(今保山)以东,北至叶榆,名为?、昆明、皆编发,随畜迁徙,毋常处,毋君长,地方可数千里。”由此可见,“昆明”一词是古代云南一个少数民族的族称。

“昆明”作为地名出现,则是在唐代。“武德二年,于镇置昆明县,盖南接昆明之地,因此为名。”按此处置昆明县,非今之昆明,乃四川定笮镇(今盐源县境)。唐代为什么把定笮镇命名为“昆明”,记载当中已写得很清楚,系它接近昆明之故。此处昆明仍指昆明族而言,盖汉唐以前,昆明族大部定居云南西部地区。直到南诏、大理国时期,乌蛮、白蛮兴起,昆明族居住的地方,为乌蛮、白蛮据有,昆明族才东迁滇中,聚居于滇池周围。宋宝佑二年(1254年),元灭大理,在鄯阐设“昆明千户所”,“昆明”始作为地名出现,延续至今。“昆明”一词的含义,晋常琚解释说:“夷人大种日昆,小种日叟。”这句话可解释为人口众多的昆明族。

【历史文化】

昆明具有悠久的历史、灿烂的文化,是国务院公布的首批24个历史文化名城之一,拥有2200多年的建城史,滇池地区拥有3020__年的文明史。约3万年前,即有人类生活在滇池地区。战国至东汉初,滇池周围的“滇人”建立滇国,创造了独具特色的“滇文化”。公元前120__年,西汉设益州郡,将滇池地区纳入中原王朝版图。公元765年,南诏国筑拓东城,为昆明建城之始。大理国时称鄯阐城。拓东城、鄯阐城分别为南诏国、大理国的东京。1276年,昆明设中庆城,首次成为省会。明代,大量移民进入云南,昆明汉族人口首次超过本地土著居民。明末清初,李定国等农民起义军、永历帝、吴三桂先后在昆明或建立政权、或建立皇宫。1920__年的“重九起义”,推翻了清朝在云南的统治。1920__年,昆明自辟为商埠及1920__年滇越铁路的修通,使昆明成为一个开放城市。1920__年,昆明爆发“护国首义”,全国响应。1920__年,设云南市政公所,为昆明设市的发端。1920__年改设昆明市政公所。1920__年8月1日,成立昆明市政府。抗战时期,昆明成为支撑中国抗战的经济、文化、军事重镇之一,成为著名的“民主堡垒”。1949年12月9日,昆明和平解放。

【建制沿革】

远古:数万年前昆明人的祖先就已在这一带过着茹毛饮血、穴居野处的原始生活。约四千至七千年前,滇池一带已有了定居的农业民族,从事“刀耕火种”的原始农业和狩猎、饲养畜禽等多种经营活动,并已能纺纱、织布。滇池地区和稻谷种植至今至少已约有数千年的历史。

青铜器时代滇池地区各氏族部落,以叟族为主,属氐羌族语系。氐羌,是中国古代分布在陕西、甘肃、青海、四川到云南北部一带的古老游牧民族。其中一部分从越西(今四川越西)渡金沙江而南进入滇池地区,与当地傣僮语系氏族“蒲”、“僚”等部落相融合,共同促进了滇池地区的开发和发展。

公元前三世纪(纪元前298~277年间),楚国大将庄?率众入滇,抵滇池地区,与当地的叟族部落联盟,建立了以叟族为主的“滇国”,自称“滇王”,其故城在今晋宁县晋城镇。“庄开滇”带来了楚国和中原内地先进的文化、技术,对促进当时以滇部落为主的滇池地区的政治、经济发展有一定的积极作用。

西汉王朝建立后,积极谋求对“西南夷”地区的开发。公元前120__年(西汉元封二年),汉武帝征发巴蜀地区士卒,滇王被迫归降。汉王朝以滇池地区为中心设置了益州郡,郡治与滇王驻地同在今晋城附近。郡下设县:昆明为谷昌县,昆阳为建伶县,晋宁为滇池县,安宁为连然县,富民为秦臧县,宜良为昆泽县,把中央集权的郡县制度推行到了西南边疆,标志着古代云南接受中央王朝直接统治的开始。郡县制度的施行,有力地促进了滇池地区奴隶制社会的解体。汉族移民和中原内地先进技术、文化的传播,使滇池地区的经济发展达到了一个新的水平。蜀汉诸葛亮平定南中后,改益州郡为建宁郡,“郡治仍益州郡之旧”,任用“大姓”为地方官吏,实行促进民族团结的政策。

公元271年(晋武帝泰始七年),晋王朝把南中四郡(建宁、云南、永昌、兴古)从益州(治成都)分划出来,设立宁州,与益州同列,为全国十九州之一。东晋以后,“方土大姓”爨氏势力逐渐强盛,成为滇中地区的统治者。公元339年(成帝咸和十四年),晋王朝封爨琛为宁州刺史,并承认其世袭地位。到梁末隋初爨瓒、爨震时代,滇池地区已是“户口殷众,金宝富饶”、“多骏马、犀象、明珠”,成为当时西南在经济上较为繁荣和富庶的地区。

公元620__年唐王朝建立,先后在云南设置了九十二州。滇池地区为九十二州的主要部分。公元620__年(唐高祖武德元年),唐朝任命爨氏子孙爨弘达为昆州刺史,治理属县,治所仍设在益宁城。唐代中叶,蒙氏势力在洱海地区崛起,建立南诏国。公元746~747年,蒙氏皮罗阁进兵安宁,攻灭爨氏。公元765年,蒙氏阁逻风(南诏国国王)命长子凤迦异于昆川(今昆明城区一带)置拓东城,并令其驻守。拓东城就成为了当时南诏国的东部重镇。拓东城的开辟,为古代昆明的城市发展奠定了基础,并发展成为南诏的第二政治、经济、军事和文化中心,往来广西、贵州和安南(今越南)的重要通道,在当时大西南的社会经济发展和与东南亚的国际交往中占有重要的地位。

公元937年,大理段氏夺取南诏政权,建立大理国,统一了云南,在拓东城的基础上设鄯阐府,为大理国八府之一。府治沿袭拓东城。段氏政权在其内部经历了较剧烈的社会变革,释奴隶,免徭役,进一步瓦解南诏的贵族统治,解放了社会生产力。鄯阐府的城市规模进一步扩大,繁华的市中心逐渐移至盘龙江以西(今金碧路、三市街)一带,大理国国主也经常驻节于此。段氏统治者在鄯阐营造宫室园林,兴修水利,到大理国末期,鄯阐城已发展成为滇中一座“商工颇众”的繁华城市。

公元1253年(元宪宗三年),元军攻占云南。1276年(元世祖至元十三年),赛典赤主滇后,把军事统治时期所设的万户、千户、百户改为路、府、州、县,正式建立云南行中书省。置昆明县,为中庆路治地(昆明命名即始于此),并把行政中心由大理迁到昆明。自此,昆明”也正式作为全省政治、经济、文化的中心。元朝统治时期,经过初期的军事掠夺和民族镇压之后,逐渐代之以定赋税和改善民族关系的政策,并大兴民屯,整修水利,订立租赋,免除徭役,“开云南驿路”,“驰道路之禁,通民往来”。元朝官吏在昆明地区挖海口河,疏通螂螳川,降低了滇池水位,不仅解除了昆明城市的水患,还“得壤地万余顷,皆为良田”,扩大了农田面积。并修金汁河、松花坝,引盘龙江水灌溉滇池东岸农田;还从内地引进养蚕技术,发展丝织业,使农民和手工业者“收利十倍于旧”,使滇池地区的政治经济在元朝中期有了新的发展。公元1381年(洪武十四年)明朝进军云南后,改元代“路”一级行政区划为府,仿内地建制,设置云南承宣布政使司和都指挥使司。

到了清朝后期,自鸦片战争,特别是1885年(光绪十一年)中法战争以后,法、英等帝国主义势力迅速侵入云南。1920__年(光绪三十年),清朝把昆明辟为商埠。1920__年(宣统二年),滇越铁路修通昆明。进一步加强了昆明作为全省商业、贸易中心的经济地位和交通枢纽地位。1884年(光绪十年)创立的云南机器局,成为昆明近代工业的开端。之后,造币厂、制革厂、官印局、电报局、邮政局等官办企业也应时而生。1920__年(光绪廿六年),昆明开始出现商办企业。1920__年(光绪三十四年),滇池出现小火轮,市内也开办有“人力车公司”。到1920__年(宣统三年),全市已有火柴、面粉、玻璃、香烟、五金、制茶、皮货加工、西药加工、火腿罐头等十多种行业,最多的为火柴业,已有厂商四家。此外,还有四十三处煤、铅、铜、铁、碗花(钴)等矿产的小规模开采。1937年抗日军兴,外地的工厂、学校内迁,大量的资金、设备和人材流入昆明,促进了昆明经济的短暂繁荣。国民党中央和云南地方的官僚资本纷纷在昆明设置和开办工厂企业,如中央机器厂、炼铜厂、电工厂、发电厂、53兵工厂、电力制钢厂、纺纱厂、烟厂等相继建立。

1950年2月24日,云南和平解放。

昆明市气候概况

昆明地处低纬高原,属亚热带湿润气候, 境内大多数地区夏无酷暑,冬无严寒,素以"春城"而享誉中外。

昆明气候的主要特点有以下几点:

1.春季温暖,干燥少雨,蒸发旺盛,日温变化大;

2.夏无酷暑,雨量集中,且多大雨、暴雨,降水量占全年的60%以上,故易受洪涝灾害;

3.秋季温凉,天高气爽,雨水减少。秋季降温快,天气干燥,多数地区气温要比春季低2℃左右。降水量比夏季减少一半多,但多于冬、春两季,故秋旱较少见;

4.冬无严寒,日照充足,天晴少雨。

5.干、湿季分明。全年降水量在时间分布上,明显地分为干、湿两季。5~10月为雨季,降水量占全年的85%左右;11月至次年4月为干季,降水量仅占全年的15%左右。

推荐昆明当好排头兵心得体会和感想五

1、文明从脚下起步,创建从你我做起。

2、一言一行总关情,携手共创文明城。

3、遵守市民守则,弘扬文明新风。

4、坚持以人为本,树立和落实科学发展观。

5、提高市民素质,贵在自身行动。

6、文明是城市之魂,美德是立身之本。

7、加强基础设施建设,改善市容环境,提高城市文明。

8、创文明城市,做文明市民。

9、争做文明市民,创建文明城市。

10、创建文明城市,建设文明新沂。

11、理想信念不动摇,拒腐防变根扎牢。

12、献出你的爱心,共创温馨家园。

13、让文明成为习惯,让城市有序和谐。

14、讲文明话,办文明事,做文明人,建文明城。

15、创建文明城市,构建和谐社会。

16、讲道德、献爱心,争做文明市民。

17、创文明单位,建美好家园。

18、感悟文明、理解文明、实践文明。

19、礼貌待客客礼貌,安全行车车安全。

20、创建文明城市,共建和谐昆明。

21、创造一流工作业绩,树立市政文明新风。

22、家庭多一份温馨,社会多一份安宁。

23、家家争做文明家庭,人人参与创建活动。

24、增强文明意识,提高自身素质。

25、您留给我一片洁净,我还给您一个健康。

26、告别不文明行为,人人从我做起。

27、塑造城市个性,优化城市环境,提升城市文明。

28、只有文明的市民,才有文明的城市。

29、让城市更文明,让生活更美好。

30、创建文明城市,共建美好家园。

31、新沂是我家,文明靠大家。

32、兴文明家风、创文明社区、建文明城市。

33、做文明市民,创文明城市。

34、我的家园,你的花园,大家共同的乐园。

35、说文明话、办文明事、做文明人。

推荐昆明当好排头兵心得体会和感想六

石林是被誉为“天下第一奇观”和“阿诗玛故乡”的国家重点风景名胜区。位于昆明市东南78公里的石林彝族自治县境内,面积1100平方千米,保护区350平方千米,是世界上唯一处于亚热带高原地区的卡斯特地质地貌奇观。石林景区包括“二林、二湖、二洞、一瀑、一园”八个片区,它们分别是大小石林;长湖和月湖;奇风洞和芝云洞;大叠水瀑布以及圭山国家森林公园。

石林风景名胜区于1931年建立,经过多年的建设发展,现已经成为“中国南方喀斯特”世界自然遗产、首批世界地质公园、国家风景名胜区、5a级景区。

石林长湖

长湖,座落在海拔1907米的群山环抱之中。湖平面形状如身材修长的少女,是民间传说中阿诗玛的故乡,因湖体掩藏在青山翠岗之中,以往游人足迹罕至,故又被人们称为“藏湖”。

景点主要有独石山、大尖山、二尖山、三尖山、磨盘山、蓬莱岛、圆湖等。面积3.94平方公里,是野营、度假、疗养、水上活动、射箭射弩、欣赏并参加民族舞蹈表演的娱乐、休闲胜地。

长湖是溶岩湖,湖水由地下水供给,周长5千米,宽300米,平均深度24米,水质清澈,无污染。四面青山环抱,植物覆盖率达95%以上。空气清新洁净,透明度好。湖中有小岛,湖岸是以云南松为主的森林,地势平缓,分由众多小湖,环境清净幽美。可划船,可垂钓,可登山,可射箭弩,可野炊,可采摘花果。备有帐篷,夜宿湖畔,月上东山,水光潋滟,约二三同志荡舟湖面,饮酒作乐,极具东坡夜游赤壁之趣;可仰身形骸;火把晚会,可歌可舞,舒张形神, 乐不思蜀。若才子佳人,情意投合,约会在此,实乃一绝。相传这是阿诗玛洗脸捣衣的地方。

每逢农历六月二十四日,撒尼人在长湖欢度隆重的火把节,这里就成了歌、花、人的海洋,摔跤、斗牛、大三弦舞蹈精彩纷呈。

圆湖在长湖南2公里处。有大车路相通,湖小,水质好,群山环抱,山青水绿。

独石山在维则村,陡峻奇险。清咸丰年间,彝族义军领袖赵发在此安营扎寨数年之久。现存有房屋遗址,石水井、石监狱、石城墙等物,营盘石垒拱门至今巍然挺立。1938年,吴晗来这里考察,题诗刊刻于山顶石壁之上。

长湖一年四季皆可游览,各具韵味。

圭山国家森林公园

圭山,因雄奇险秀的山峦形若大海龟隆起的背部而得名“老龟山”,后改译音为“老圭山”,彝语称“构波玛”,意为“大雁的山”。山峰海拔2601米,南北长14千米,宽10千米,总面积3206公顷,系云岭山脉余脉,以山脚相对高度981米,为县内最高大的山峰。圭山属亚热带低纬高原山地气候,年降雨量970毫米,年平均气温14°c,年平均无霜期210天,月平均气温变化不大,冬暖夏凉,四季如春,是旅游度假,休闲避暑的好去处,且圭山与闻名遐尔的石林风景名胜区比邻,距阿着底“彝家乐”生态树仅10公里,与之构成一道靓丽的回归自然的风景线,具有很高的旅游开发价值。

圭山地区广泛分布着古代可溶性碳酸盐沉积岩、石灰岩发育形成的典型的岩溶地貌。奇峰、溶洞、落水漏斗遍布的地貌景观为其所特有。彩云壁、摩天岩在林海中时隐时现,其粉红色的、黑白相间的峭壁高数十丈,巍然耸立。

圭山森林覆盖达80%,分布着多样的森林植被,多是受高原亚热带季风影响形成的半湿常绿阔叶林,主要是滇青冈、清香木、黄毛青冈和杜鹃等构成的群落植被。随着圭山地势的起伏,草坪也分成数台,颇具情趣。每到入春和盛夏时节,丰富的蕨类植物如三叶草、彩叶草、滇紫草、石槲、龙胆草等野花争相开放,灿烂纷呈,漫步在酥软如绿毯的草地上,幽香扑鼻顿觉心旷神怡。珍贵植物及天然药草遍及圭山每个角落,常见植物有460余种。国家二级保护植物有:红椿、云南樟木、三尖杉、榉木、厚朴、杜仲、扇蕨等;省二级保护植物有:小果南烛,裂果漆;省保护植物有:滇香木、荼条木、十大功劳、刺黄莲等,还拥有云南人引以自豪的茶花,杜鹃和报春花三大名花,药草有草鸟、叶上花、天麻、三棵针、半夏、百合乌梅、龙胆草、桔梗等上百余种,这些珍稀和名贵的植物是全人类珍贵的自然资源,对于生物多样性的保护、遗传学、生态学、社会及经济发展等方面都有很高的价值。

圭山山高林密,森林生态环境良好,是野生动物的天然栖息场所,主要野生动物有:穿山甲、果子狸、麂子、鹰、八哥、山鸡、画眉、啄木鸟、白腹锦鸡、喜鹊、野兔、九节灵、松鼠、蜍及青竹标、绿蛇、蜥蜴等。

圭山东北部地势平缓,西南两面山体陡峻、峭壁嶙刚、森林险峰融为一体,山体浑圆高耸入云,站立山外从不同的角度看圭山,真乃"横看成岭侧成峰,远近高低各不同"。

圭山,山高地阔,气象万千。登临山顶,清晨可观喷薄欲出的红日朝霞,傍晚可赏徐徐坠落的夕阳余辉;在天气晴朗的日子,放眼眺望,临近四县锦绣般的原野平畴、山河湖泊、轻纱浩渺,令人心醉神迷。最令人难忘的是冬雪时节的圭山,那真是一个银装素裹、冰雕玉琢的世界。置身其中,感觉自己也被这冰玉世界净化得冰清玉洁。云海也是圭山一大景观,似轻烟白雾一样时而升腾、时而飞动、时而站立,升腾时群峰显露臂膀,山花张开笑脸;飞动时层峦影影绰绰、林海时隐时现;伫立时如一片汪洋把天地融合在一起,这景观是那样神秘莫测,使人深深感到大自然的奇妙。 圭山是光荣的革命历史纪念地,曾经是云南人民在解放战争中向国民党反动派打响第一枪的革命根据地。朱家壁将军率领一支人民的军队先后与敌军作战10余次,攻克师宗,丘北,解放广南,在圭山建立了革命根据地,为云南的解放事业做出了重要贡献。朱家壁将军纪念碑座落于圭山群峰环绕中森林浓郁的地方。对后人的革命历史传统教育具有积极的作用。

圭山上有一寺,名曰圭山寺,又叫圭镜寺。位于圭山东北坡,始建于明朝,是方圆周边四县(泸西、弥勒、师宗、陆良)乡民最崇拜的佛教名山胜地,史载有“圭山在东州,树林荫郁,山巅有池,盛旱不涸,池下有寺,俯瞰交广,旧时秦土司居之”。近几年来,临县乡民自动捐资修复建设大雄宝殿、草庵寺、玄天阁等。每年农历三月初三前后,当地及邻县各族乡民成千上万的佛教虔诚者上寺朝圣祭祀甚是热闹。

圭山地处多民族地方,苗族、彝族支系中的撒尼、黑彝、白彝、彝青与汉族杂居于此,每个民族都有自己历史悠久、丰富多彩的民谷风情文化,共同构成了圭山地区渊源流长,绮丽多姿的风情长河。

圭山,林海茫茫,浩浩瀚瀚,气势恢宏,于20xx年12月28日由国家林业局批准,成为国家级森林公园。

圭山国家森林公园,不仅有多样性的森林植被、多种野生动物,而且有独特的民族文化、浓郁的民族风情和宗教文化,还是革命历史纪念地,喀斯特地貌又为其增添了奇异的景观,是现代人休闲度假和生态旅游的理想去处。

奇风洞

奇风洞是一个会“呼吸”的山洞。在石林县诸多溶洞中,数它最奇特。洞中虽不大,直径约1米,但每到雨季,洞内便会发出像老牛喘气一般的声音。有人故意用泥巴封住洞口,它也能毫不费力地把泥巴吹开,若在洞口燃起干柴,洞中的风便把火苗浓烟吹腾飞扬,停歇10多分钟之后,又开始吸气,烟火又被“吞入”洞内,如此一呼一吸,循环往复不绝。奇风洞的呼吸现象并非四季常有,通常发生在6—10月间。奇风洞尚未开发,属储备景点。

关于石林的奇风洞,还有一个美丽动人的传说。

在很久很久以前,石林小村有一位叫果基的撒尼青年,靠给土司放牲口养活双目失明的母亲。有一天,果基到一个山凹放牲口,听到远处有人说话:“勤劳善良的人啊!到我这里来吧!我将给你幸福。”果基朝发出说话声的地方走去,发现前面有一个山洞。他勇敢地向洞里爬去,先是漆黑一团,爬了一段,来到一个明亮的大洞,洞里堆满了金银财宝和粮食药材。果基不爱金银财宝,只拿了一点草药和粮食就爬出洞口来,他把粮食分给穷乡亲,用草药医好了母亲的病。

果基找到宝洞的消息传到土司耳中,贪财的土司带着凶恶的家丁,逼着果基下洞去背金银财宝。果基背了一背又一背,沉重的布袋使得他又累又渴,一口气喝完了洞里的一汪泉水,竟觉得身体发胀,渐渐变成了一条巨蟒,想到自己再也不能回去奉养母亲,又听到土司凶狠在洞外喊叫,他的复仇之心油然而生,爬出洞去,张开大口把土司吞进肚里。

母亲不见儿子回来,找到山洞,对着洞口不停地呼唤儿子的名字。果基怕自己的样子吓着母亲,只能在洞里大口大口地喘气。久而久之,妈妈变成了歪着头喊儿子的歪头山,而果基呢,只能在洞里回答妈妈的呼唤……

石林芝云洞

芝云洞景区包括芝云洞、小芝云洞(叠云岩)、祭白龙洞、猪耳朵洞、大干洞这几个溶洞,是观赏喀斯特溶洞景观为主的溶洞群落。目前建设开放了芝云洞、小芝云洞(叠云岩)和祭白龙洞三处景点。其中芝云洞建设开发时间最早,已近420xx年之久,是明万历年间路南州知州汪良(一说汪良明)发现并立碑题记,派人修整的。

该题碑仍完整保留于芝云洞右侧小洞,是最早记载石林风景名胜的文献,有较高的研究价值。芝云洞洞口大厅有该碑的复制品。

芝云洞在大小石林西北6公里,安石公路东侧的一座石灰岩大石山中。洞长400为,宽3—15米,高5—30米,呈“丫”形,两段洞由一低矮狭窄的洞门连为一体。洞内多石钟乳、石笋、石柱等溶洞景观。形态多样,异彩纷呈。明以后称“仙迹胜景”,以“石硐仙踪”之名号独居石林八景之首。

从洞口到洞尾,共二十多个主要景点,分别是:灵芝仙草、玉象撑天、倒挂金鸡、葡萄满园、云中坐佛、礼貌洞、钻山骆驼、双狮恋、悟空取宝、东西龙宫、蛟龙升腾、千年玉树、太白金星、神牛寻母、水帘洞、龙虎斗、寿星摘桃、水漫金山寺等。

洞内游路安全,观察角度好,灯光照明设备齐全。通风良好,空气通畅,岩壁坚固。游时需1小时左右。

祭白龙洞位于天生桥村祭白龙山下,距大小石林4公里,距芝云洞2公里。全长450米,高10—20米,宽5—10米。洞内除常见的石笋、石柱、石钟乳外, 还有石花、卷曲石、方解石晶体、鹅卵石、石井等,形态奇美。和其它溶洞特点不同的是,该洞溶石光滑透明,亮如水晶,洁白纯净,在灯光映照下,美不胜收。中国和斯洛文尼亚洞穴专家联合考察后承认,在这样的小洞中有如此玲珑奇巧的碳酸钙沉淀,世界上也不多见。

祭白龙洞共有宫灯迎客、银河叠水、龙宫宝殿、巨龙护宝等三十个命名景点。由于该洞开发时间较晚,未遭人为破坏,洞内各种溶石保存完好。游时需1小时。

小芝云洞又名叠云岩,在芝云洞对面,距芝云洞数百米,在1998年10月1日对游客开放。洞长200米,最高30米,宽8米。特点是石钟乳、石笋较集中,洞内曲折陡峭,已命名景点23处,它们是:红莲仙境、青蛙王子、莲花公主、大青权、火把山、叠云峰、斩巨龙、蚌壳花、山崩地裂、倒挂莲花、血染红岩、龙宫水母、黑山峡谷、吊死鬼、相思泪泉等。

售票处设在安石公路西侧,距洞口数十为。游时需半小时左右。

以上三溶洞景观各具特色,洞内照明、通风及安全条件好,洞群集中,交通便利,距大小石林近。游完三个溶洞大约需要4小时左右。洞口均设有小摊点,可购买饮料及食品以及其它纪念品。

洞内温度变化不大,冬暖夏凉,但较潮湿。

建议外地游客先游览该区,待大小石林游客高峰过后再游览大小石林景区。不益穿高跟鞋,不须准备照明及共它探险用具。

石林仙女湖

仙女湖景区由清水塘村、仙女湖石林及尾博邑峡谷等景点组成。

该景区尚未建设开放,已被石林管理区纳入发展规划之中,拟在涵养湖水,绿化荒山的基础上,将仙女湖观赏和传统村寨体验与仙女湖南部的高尔夫球俱乐部结合,形成独特的游览区。

仙女湖是以石林结合水面、规模最大、景色最美的景观 ,附近的清水塘村,古朴宁静,充满浓郁的撒尼民族风情。苦楝树荫中的红土房子,乡村道上的牛车马车,高高的烤烟房,长满大片青苔的茅草房顶,以及秋天、冬天满树悬挂着的金黄苞谷串……人如在油画中行走。仙女湖南约2公里处有尾博邑峡谷,谷底溶洞中发现盲鱼(学名:石林高原鳅),有关学术论文发表后,作为石林申报《世界自然遗产》的补充材料,得到联合国教科文组织官员的高度评价和重视。

飞龙瀑

飞龙瀑小叠水瀑布落差20余米,宽约10余米,水落潭中,浪花飞溅,潭内有一"鱼巨石"。

从小叠水瀑布西行约1.5公里,闻水声震耳,路面似乎微微颤动。巴江从一断壁跃下。河道断裂横切而形成瀑布。瀑布落差90余米,比贵州黄果树瀑布高出18米,雨季幅度可达60余米,是云南省最大瀑布,也是珠江第一瀑布。瀑布如雾崩云坠,气势磅礴,水雾在阳光下映出彩虹。

观赏大叠水全貌,可乘缆车往返,舒适、安全、快捷。缆车单程10元,往返20元,也可沿山壁开凿铺设的石阶上下。几百级台阶在山崖间盘旋,别有趣味。观瀑最佳地点还有半山腰的半瀑园,可临近瀑布,观察其上端和侧面,感受瀑布的力量和美。

清水河是瀑布近旁的小山谷,深约3公里,有山道蜿蜒进去,水极清,在嵯岈的乱石间流淌。山狭窄,绿树葱第,环境清幽凉爽。

仙人洞在大叠水对面半山腰,长百余米,宽6-10米,高10-20米。有天然大要堂,有石笋、石牙、石幔等沉积物。

大叠水景区旅游服务设施较完善,有饭馆和小商店。为游客提供休息场所,瀑布岩壁上的山洞星级旅馆已修建完式,能提供档次较高的服务,设计施工独到巧妙,与自然溶为一体,别有风味。俯临木栏杆,把酒临风,鸟瞰身下绝壁悬崖,遥看瀑布激起的满谷水雾,听水声轰降,飘然欲仙。

黑松岩(乃古石林)

清康熙《陆良州志》说:“石门峰,沿西四十里地名石门哨。”最早叫石门,因俯视时象一片苍翠的松林而得名“黑松岩”,又因“黑”在当地彝语中称“乃古”,所以又叫乃古石林.。

黑松岩景区(乃古石林)面积约10平方公里,高等级公路由石林直通黑松岩东区,距石林火车站约5公里。黑松岩的石林,大多呈城堡状、塔状、蘑菇状,除了与石林景区相似的刃脊状与剑状石柱外,还有很多的尖顶状石柱。在上端它们彼此分离,根基部却都连在一起,组成石墙、石城和石阵。其石峰呈黑色,与石林景区的石头的青灰色相比,给人截然不同的感觉,且比石林景区广阔,独具荒凉、粗犷、古拙之美,更给人以回归自然的心旷神怡之感。入口处有白云湖,水平似镜,景区中又有白云洞,神奇瑰丽。

景区由石林景观、白云湖、白云洞、石峰山、幽谷仙瀑组成。一般分布为东、西、北三个区域。铺设的石板游路总长6公里多,贯穿西区和东区。已命名的景点有九十六处。

东区的主要景点有:梁祝相会、众志成城、峰上望、古战场、石破天惊、天鹅恋、猪八戒背媳妇、独石成林、佛手屏、千刃峰、孔雀开屏、承露盆、双狮恋等,游时需2-3小时。

西区的主要景点有:相依为命、八仙亭、古佛一灯、龙腾虎跃、老君壶、南天栈道、古塔洞天、南一华表、垂帘听政等十九处,游时需1-2小时。西区外环绕着田野,开阔明亮,一派田园风光。

北区尚未充分开发,供有羊肠小道可通行,岩体高峻雄伟,气势非凡,并有大量石芽分布。游览时,最好穿牛仔类紧身衣裤和防滑性能好的旅游鞋。许多地段需要在灌木和荒草中穿行,需要爬壁攀岩。该区是体力好并富有探险精神的游客的最佳去处,能尽情享受处服自然及登高舒怀的自豪和喜悦。

游黑松岩景区可归纳为:峰上望、地上转、地下钻。

峰上望,即在东区"峰上望"景点登高远眺,可观赏到黑松央景区的全貌及周边村寨田野风光,领略黑松岩的荒蛮、雄浑的博大气势。

地上转:即在地面石林中穿行。

地下钻:即游览中部的"白云洞",该洞长400余米,空间宽敞,照明及游路设施配套齐全,钟乳石、石笋、石柱等地下溶洞景观丰富,形态多样 ,并完整演绎了一个神奇的民间传说。管理站设在西区洞口,票价为10元(门票已包含)。

充分游览该区(包括北区),需5-6小时。东区入口处有商店、餐馆及娱乐设施,为游客提供方便,游客亦可储备饮料及食品。

月湖

月湖海拔1906米,宽1500米,平均深18米,水面4500亩,是“路南石林”高原断陷湖中最大的一个湖泊。

月湖呈新月形,水面宽广又不太深,因而盛产鱼。在月湖垂钓一般都会收获颇丰。湖岸的石岩里藏有许多珊瑚、螺蛳、蛤蜊等海生化石。

月湖的南岸是石灰岩质的石山,刚露土的石芽石笋让人叹为奇观。湖北岸是绿色的草坪。湖东岸山峦起伏,林木葱笼,彝村风光秀丽。环湖的小山上,种着青松翠柏,生长着芦苇。

月湖夏天不野,冬天不瘦,永远笑而不言。它用自己的乳汁滋养着四周的青山田园,用自己的博大胸怀培育了彝族人民丰富多彩的民族文化。这里的人民有说不完的故事,唱不尽的歌,用不完的力。

到哪里去寻找冬天里的春天?到月湖,那里有爽朗明丽、活力蹦跳的春天。

推荐昆明当好排头兵心得体会和感想七

太和宫金殿,又名铜瓦寺,坐落在昆明城东北郊鸣凤山,俗名鹦鹉山。鸣凤山原名相度山,明万历年间始创太和宫金殿以后,改称鸣凤山,系明代以来云南著名的道观风景名胜区。

清光绪十六年(1890年)舒藻《重修太和宫碑记》详细记载了太和宫创建的历史:“滇南苴兰(昆明)会垣东关外,距城十五里许,有山鸣凤,又俗名鹦鹉山。前明万历壬寅年(1602年),道士徐正元叩请云南巡抚陈公用宾,会同黔国公沐公昌祚,右都督沐公睿,御使刘公会于是山之巅,仿照湖广武当山七十二峰之中峰修筑紫禁城,冶铜为殿,铸供真武祖师金身。名其宫曰‘太和’,亦仿照武当山中峰宫名也。其时并建三元、环翠二宫,所供圣神仙佛,各有专司,瞻拜者历历可溯。而其殿宇,概以‘太和宫’统之。其地左挹华山之秀,金马腾辉;右临昆海之滨,碧鸡焕彩,洵为滇南一胜境也。乡人称之或曰金殿,或曰金顶,任其信口而出耳。”

这段碑文依据史料,叙述了仿湖北武当山始创昆明太和宫金殿的时间、创始人、冶铜为殿、供奉真武金身的道观规模,以及鸣凤山的山势。明万历三十年(1602年)道士徐正元“叩请云南巡抚陈用宾”,陈用宾会同黔国公沐昌祚、右都督沐睿、御使刘会,同登鸣凤山巅,商定仿武当山中峰兴建太和宫。这与明万历甲辰年(1604年)正月太和宫创始人陈用宾所撰《鼎建太和宫记》是一致的。舒藻的碑记用白话叙述,通俗易读。陈用宾的碑记文言纪事,不容易读。

舒藻碑文中所说:“其时并建三元、环翠二宫”一段不准确。其实创建太和宫前七年,就已建“环翠宫”。陈用宾撰《环翠宫记》称:“余抚滇之三年,命官于鸣凤山建环翠宫,其中为阁,祀吕师(吕洞宾),殿有二,王、陶天君,何、柳二仙并祀阁上。”陈用宾,福建晋江人,明进士,万历二十一年(1593年)以右佥都御使巡抚云南。陈用宾“抚滇之三年”,即万历二十三年(1595年),他“命官于鸣凤山建环翠宫”。万历三十年(1602年)“叩请”陈用宾兴建太和宫金殿的“道士徐正元”,就是环翠宫的道士。

正如陈用宾《鼎建太和宫记》所述:“及抚滇之九年”,即万历三十年(1602年),陈用宾“偕卜胜东城,相度山原间几一舍许无当者,延伫环望,真气英英,连蜷环翠宫左,扪萝视之,适彩雉从中盘起,玉局宛然,无亦光岳之閟有待欤?”陈用宾偕沐昌祚、沐睿、刘会等登相度山,卜胜选址,已见山势“连蜷环翠宫左”。这清楚说明,明万历三十年陈用宾为太和宫选址时,已有环翠宫。太和宫金殿、三元宫于明万历三十年(1602年)动工兴建,“始事竣工,俱以王正之月,甫一载而缮定”。“万历甲辰(1604年)岁春正月吉旦”,陈用宾撰立《鼎建太和宫记》。

民间传说陈用宾曾在鸣凤山“三遇吕洞宾”,是吕仙引示他鸣凤山是“洞天福地”,所以他“抚滇之三年”即“命官于鸣凤山建环翠宫”,“其中为阁祀吕师”。环翠宫建成后,陈用宾曾撰楹联:

春梦惯迷人,一品朝衣,误了九寰仙骨,鸡鸣紫陌,马踏红尘,军门向那头跳出?

空山曾约伴,七闽片语,相邀六诏杯茶,剑影横天,笛声吹海,先生从何处飞来!

陈用宾身居云南“军门巡抚”,既迷恋官场“一品朝衣”,又向往道教“九寰仙骨”,矛盾的心情,只有请问“剑影横天,笛声吹海”飞来的吕仙人,他该“向那头跳出”?

陈用宾《建太和宫记》开头有这样一段话:“考玄帝天乙之精,乘玄枵当帝座,迹最著于太和,贞观而还,代能尊祀。我成祖文皇帝穆有遐思,式廓其制,千古让隆焉……”说是真武玄帝系“天乙之精,乘玄枵当帝座”,真武神迹,太和山(即武当山)最著名。从唐贞观年间以来,世代尊祀。明成祖朱棣崇信真武,敕令大修武当山,千古隆重奉祀真武。武当山有“真武神,永乐像”的传说,以后天下真武宫都按这“永乐像”塑真武。

明崇祯十年(1637年)金殿移到宾川鸡足山,史志碑记所载是一致的。明崇祯十年(1637年)云南巡抚张凤翮将铜殿移到宾川鸡足山天柱峰。天柱峰为此又称“金顶”。鸡足山铜殿毁于1966年“___”“扫四旧”期间。张凤翮移铜殿时,太和宫铜殿的基座、下层平台砂石浮雕栏杆未拆,保存至今。

清康熙年间重建鸣凤山太和宫铜殿,“范铜至五百余万之多”(250吨)。1980年清洗铜殿烟尘污垢时,发现铜殿正梁上通体被烟垢覆盖的铭文,梁中间的字被藻井遮盖,我爬上去看是“大清康熙十年岁次辛亥大吕月十有六日之吉平西亲王吴三桂敬筑”。铭文证实清康熙九年(1670年)吴三桂修葺太和宫,重建真武铜殿,铜铸神像,竖“铜幡竿十余丈,亭亭特立”。康熙十年(1671年)十月十六日竣工落成。因吴三桂康熙十二年(1673年)举兵反清,故方志碑记只称“清康熙九年重铸”,回避是吴三桂重铸铜殿。

吴三桂重建真武铜殿后,铸了一口“七星宝剑”悬挂在铜殿内,这就是碑记中所载真武“慧剑高悬,常伏魔而制怪”。吴三桂又将其使用过的一把木柄大刀,重12斤(6公斤)留在太和宫,以炫耀其武威。

铜殿正面,清康熙三十三年甲戌(1694年)云贵总督王继文书悬“南无无量寿佛”铜匾。“无量寿佛”即“阿弥陀佛”,不少人感到疑惑,一代名儒的云贵总督,为什么在真武道宫挂佛教匾?武当山记载,永乐十四(1416年)武当天柱峰顶建真武铜殿时,峰巅咫尺地盘上已有佛教无量寿佛殿,佛道互不相让。得知建铜殿是圣上旨意,佛家折中,“让地不让佛”,真武殿上挂“无量寿佛”匾,朝拜真武同时,也颂“南无无量寿佛”。鸣凤山太和宫仿武当山中峰兴建,王继文依据武当山典故悬匾。

清道光二十五年(1845年)《重修二天门碑记》记载了清代昆明两次地震的情况:“乾隆年间,滇省地震,星旗救劫,厥有灵徵”。这次地震影响不大。道光“十三年(1833年)七月二十三日,滇地大震,復得殿宇牌坊,客座茶房,震摇摧坏。”太和宫更大的劫难是咸丰年间,太和宫毁于兵燹,三元宫化为灰烬。每一次损坏后,都不同程度地进行了修缮。其中,光绪十六年(1890年)至光绪三十一年(1905年)前后十五年间,太和宫住持李明清劝募“缙绅王炽、余安转禀督办云南矿物、前巡抚唐公炯,倡铸铜一万斤,并遍约同人,量力捐助。铸造亭子、侍座神像、格扇瓦片,并重修山门、牌坊、殿宇,众作新之。”

太和宫金殿于1950年军事接管,定为“昆明市金殿名胜区”。先后隶属文教局、建设局、文化局、园林局管理。1966年“___”“扫四旧”期间,各殿泥塑神像被破坏,殿宇坍塌,荒烟蔓草。1968年又将太和宫划属昆明力车胎厂作宿舍,1970年由昆明市城建局收回。

逐年修复古建筑,重建雷神殿、老君殿、三丰殿,翻修三座天门、棂星门,新建长廊亭台,局部维修明代城墙。1983年兴建山巅钟楼,保护原昆明城宣化楼之明代永乐大钟。

1983年至1991年,在鸣凤山东面、南面新征土地273亩,兴建占地500亩规模的“昆明园林植物园”。园林植物园分为十二个专类花卉园区茶花园、温室花卉区、杜鹃园、水景园、木兰园、蔷薇园、竹类植物园、裸籽植物区、珍稀濒危植物区、造园示范区、鹦鹉园(盆景区)和雪松草坪园。省、市政府先后投资达800余万元。

为迎接1999年在昆明举办的世界园艺博览会,1997年至1999年,市政府先后在鸣凤山金殿投资20__万元,全面维修太和宫古建筑群,整修钟楼,开辟钟楼旅游服务区,兴建大型观赏温室,新建杜鹃精品园,开发兰圃和蕨类植物园,重建秋园餐厅,改造旅游招待所,重建园内旅游厕所。在金殿自筹资金兴建“中国金殿博览苑”的基础上,进一步开发金殿青铜文化旅游景点……这次整治修建,为太和宫金殿创建四百年来规模最大的一次修葺和兴建。金殿名胜区1999年跻身云南省一流风景名胜区。

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